▼PR
お城にざっくり関係ある雑学を語ります。
築城者紹介の2回目ですね。
築城の名人としては、5人が有名です。
- 宇和島城(第17回)、今治城(第53回)、伊賀上野城(第87回)などを築いた藤堂高虎
- 松山城(第26回)を築き、会津若松城(第15回)を大改修した加藤嘉明
- 松江城(第5回)を築いた堀尾吉晴
- 中津城(第66回)、福岡城(第65回)を築いた黒田如水
- 熊本城(第25回)を築いた加藤清正 ※()は当ブログお城大好き雑記の番号
彼らはいずれも元秀吉の家臣から大名になった、徳川幕府から言えば外様大名です。
秀吉のもとで築城に携わった大名たちは城づくりの要諦を心得ており、また穴太衆などの専門職人集団を抱えていました。
徳川幕府は、彼らの築城術を利用して名城・堅城を築かせ、結局は城を取り上げ、その後に親藩や譜代の大名を転封することがままありました。
財力と技術を使い切らせて築城させてからその城を取り上げたのです。
あたかも城は藩主のものではなく、徳川幕府を本社とした場合の支社の建物に過ぎないかの如くです。
また、家康はその外様大名を使って、江戸城、名古屋城、再築大坂城、彦根城、篠山城など天下普請といわれる城を築城しています。
賢いですよね。
計略です、まさに。
今回はその一人で、石垣と言えばこの人と真っ先に名前があがる加藤清正(きよまさ)を取り上げます。
安土桃山時代から江戸初期にかけての智勇兼備の武将であり、肥後国熊本藩初代藩主です。
加藤清正は永禄5年(1562)尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)にあった刀鍛冶屋の息子として生まれました。
清正の母・伊都が秀吉の生母お仲と従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、近江の長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕えます。
清正が11歳のときでした。
幼少時から体が大きく、母が教育熱心で寺に通わせて学ばせていたことから、体力・知力ともに高い子供だったようです。
秀吉は清正の将来を期待し、可愛がり、清正もそれに応え、生涯忠義を尽くし続けます。
賤ケ岳の七本槍として活躍するだけでなく、秀吉の築城、土木工事を間近で経験することで築城のノウハウを学びました。
そして、天正19年(1591)の朝鮮の役のときには肥前(今の長崎県・佐賀県)の名護屋城築城責任者として、わずか五か月で巨城を完成させたと言われています。
姫路城、大坂城、聚楽第、名護屋城の築城に参加した清正は、熊本城の築城をはじめ領内の灌漑水利事業など土木工事に大きな実績を残している武将です。
熊本城は清正の最高傑作の城と言えましょう。
清正は、石垣積みでは有名な穴太衆を多く抱えていましたし、勉強熱心でした。
朝鮮の役で苦戦した城壁が横たわる高石垣の朝鮮の城を実見し、現地でも倭城(朝鮮半島に築いた日本軍の侵攻の拠点としての城で「わじょう」という)の築城を経験、さらに石垣構築の技術を高めたとされています。
裾の方の緩やかな勾配から最上部の天端では反り返る「清正(せいしょう)流の扇の勾配」「武者返し」と呼ばれる高石垣は本当に見事!!✨
またこの石垣の反りはただ形が美しいだけでなく、下に行くほど重力が分散されるために崩壊しにくいと言われています。
加藤清正は熊本城の築城だけでなく、穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組みました。
この結果熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在していますし、その土木技術は非常に優れていて、400年後の現在も実用されているものも少なくないようです。凄いぞ!!
このとき、清正は莫大な人手をまかなうため男女の区別なく動員しました。
しかし、給金を支払い必要以上の労役を課すことはなく、また事業の多くを農閑期に行うことによって農事に割く時間を確保したと言われています。素晴らしいぞ!!
このことが、熊本の人たちに「清正公(せいしょこ)さん」として崇敬される要因となり、現在も種々の遺跡や祭りなどに取り上げられています。
領内を単に統治するだけだった他の大名たちとは対照的に、加藤清正は治水事業や農業行政で領民の為の施策に実績を上げたからでしょう。
清正は単なる築城の名手だけではなく、名将でした。
黒田如水とともに家康の東軍に協力して西軍側の小西行長の宇土城、立花宗成の柳川城などを開城、凋落し、九州の西軍勢力を次々と破りました。
戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名となります。
徳川幕府になってからは、篠山城、名古屋城、江戸城などの天下普請に参加して、最先端の石垣工法によって築城してゆきます。
慶長11年(1606)の江戸城の石垣築造の折、現在の桜田門辺りの石垣を浅野家と担当します。
浅野家は加藤家より早く石垣を築き終わりますが、大雨が降り浅野家の築いた石垣は崩れてしまいました。
しかし、加藤家の築いた石垣はびくともしなかったという話が伝わっています。流石だぞ!!
また同16年名古屋城築城の時は助役普請を命ぜられ、単独で天守台石垣を築き上げます。
このとき清正は、朝鮮在陣中に修得した独特の工法を他者から見られないようにするため、石垣工事の現場を幔幕で覆って普請を進めたそうです。
現場にしてみたら面倒くさいですが、勉強の結果のオンリーワンの手法ですものね。
やり方を盗まれたら大変です。
石垣築きは清正が最も得意としたところで、清正流築城術の秘伝でした。
今も天守台石垣に「加藤肥後守内・・・」の刻銘が残っているようです。
清正の陣羽織・日の丸扇での陣頭指揮は有名で、名古屋城内にその姿の像がありますよ。
偉いさん自らがこれをやってくれたら、現場の士気も上がるっちゅーもんです。
築城の名人加藤清正には、現場担当の家臣がいました。
築城術に長けた森本儀太夫という家老と、名古屋城の築城に当たって采配をふるっていた飯田覚兵衛、そして三宅角左衛門ら築城の一流技術者です。
加藤清正が築城の名人であることには変わらないでしょうが、これらの高級技術官僚がいたからこそ可能だったことも間違いないことでしょう。
晩年には徳川・豊臣秀頼の橋渡しに尽力しますが、二条城の会見の3ヶ月後、帰路の船の中で突然発病、49歳で死去します。
あまりにも突然だったため、徳川家康による毒殺ではないのかと噂されました。
▼関連記事
【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2018年5月7日第6刷発行)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、小和田哲男「NHKカルチャーラジオ 歴史再発見 城と女と武将たち」(NHKサービスセンター発行)、「歴史と旅」平成3年7月号(秋田書店)他
▼PR 旅へ行こう