日本全国にあるお城。
見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
前回は、国宝の天守について紹介しました。
続きまして、今回は、昭和4年(1929)に公布・施行された「国宝保存法」により国宝に指定されていながら、昭和25年(1950)の「文化財保護法」では「国宝」に指定されず、重要文化財に指定された現存の7天守についてです。
重要文化財の天守がある7城はもちろんすべて日本100名城に選ばれていますので、以下、順次紹介していきますね。
なお、それぞれの詳細は、個別の紹介記事を参照してください。
1 宇和島城天守(愛媛県)
宇和島城は、築城の名手である藤堂高虎が慶長元年(1596)に築いた平山城です。
リアス式海岸の宇和海に面した小山の上に築かれた海城でもありました。
高虎が築いた天守は望楼型だったようです。
高虎が今治に移封の後、富田氏を経て、仙台の伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が入城してきます。
現在の天守は、寛文6年(1666)に建てられた2代目の天守で、三重三階の白漆喰総塗籠層塔型独立式天守です。
入口は、唐破風の御殿の玄関のような形をし、一重目に比翼千鳥破風、二重目にも千鳥破風、その上に軒唐破風が置かれています。
格子窓はありますが、鉄砲狭間などはなく、装飾性の高い天守ですよね。
徳川の安定した平和な時代に造られたためでしょうか、戦いに備えた天守とはまったく言えません。
2 松山城天守(愛媛県)
松山城は、関ヶ原の戦いの戦功で加藤嘉明が伊予松山に入封したのち、慶長7年(1602)から築城を始めます。
標高132mの勝山山頂に本丸を置いている、平山城です。
そのときに建造された天守は、残念なことに火災で焼失してしまいました。
天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓が天守曲輪の四隅に配され、多聞櫓や渡り廊下で結ばれた連立式天守です。
天守の構えとしては最も防御力のある形式ですね。
大天守は、三重三階地下一階の層塔型。
二重目に軒唐破風と千鳥破風、三重目には廻り縁が置かれています。
一重、二重目は下見板張りで重厚感がありますね~。
3 丸亀城天守(香川県)
丸亀城は、生駒親正(ちかまさ)が慶長2年(1597)から同7年にかけて標高66mの亀山城に築城した平山城です。
いったん廃城となりますが、その後、山崎家治、続いて京極氏が入城します。
現在の天守は、京極氏が造ったもの。
見上げるばかりの三段の高石垣の上に、小振りながらも風格のある天守が聳えています。
三重三階層塔型独立式天守で、一重目の下段が下見板張り、その他の部分は白漆喰総塗籠です。
瀬戸内海を見下ろす大手側の一重目左に石落としのある出格子窓、二重目の向唐破風、三重目の北面には大きな格子窓、西面には千鳥破風が置かれ、天守としての格式を高めていますね。
4 高知城天守(高知県)
高知城は、関ヶ原の戦いの後、掛川から移封してきた山内一豊が、慶長6年(1601)に築城した平山城です。
土佐24万石の山内家の居城で、一度も転封することなく明治を迎えます。
これは凄いことですよ。
天守、天守に接続している本丸御殿(懐徳館)、多聞櫓、黒鉄門など本丸のすべての建造物が残っているのは、日本で高知城だけです。
これもまた凄いことです。
二重の入母屋造りの大きな建物に二重の望楼部を載せた古式ゆかしい天守ですね。
二重目に大きな入母屋破風と千鳥破風、三重目に軒唐破風、最上階に廻高欄が置かれています。
享保12年(1727)の大火で他の建物とともに焼失したのですが、延享4年(1747)に古い形のまま再建されたものが、現在の天守です。
5 備中松山城天守(岡山県)
備中松山城は、岡山県高梁市の臥牛山(がぎゅうざん)山頂に築かれている、近世三大山城の一つです。
江戸時代に小堀正次・政一親子が修築し、天和年間(1681~84)の水谷勝宗(みずのや かつむね)の大改修で現在の城の形になりました。
小堀政一(まさかず)は、後に遠州と名乗った名築城家であり、造園家、茶人として有名ですね。
麓の頼久寺には、国指定名勝となっている小堀遠州初期の作の庭園があります。
天守は、標高430mの小松山の本丸に建っていますよ。
二重二階層塔型複合式天守で、一重目に唐破風付出格子窓、東面に入母屋造りの突出部が付けられた凝った意匠の外観をしています。
また天守の中には囲炉裏や御社壇があるのですが、これは他の天守には見られないものです。
天守は、現存する天守のなかでは最小ですが、日本一高いところに建てられています。
平成9年(1997)に、五の平櫓、六の平櫓や本丸御門、土塀などが再建されました。
中腹の駐車場からしんどい思いをしながら登っていくと、目の前に天然の岩盤と人工的に積み上げられた大手門跡付近の高石が現れます。
圧巻の一言に尽きる景色です。
この景色を見るためだけでも、是非登城して欲しい天守です。
6 丸岡城天守(福井県)
丸岡城は、柴田勝家の甥・勝豊(かつとよ)が天正4年(1576)に築いたといわれている平山城です。
野面積みの立派な天守台の上に、大きな入母屋造りの建物に望楼部を載せた二重三階望楼型独立式天守が、どっしりと建てられています。
全国にある12の現存天守の中で最古の天守であるとも、違うとも言われていますよ。
しかし、この天守の姿はもっとも古い形のように思えますね。
一階は下見板張りと漆喰塗籠、三階は柱などを白木のまま見せています。
三階に廻縁を置いた古式ゆかしい姿です。
屋根瓦は、この地方で取れる笏谷石(しゃくだにいし)を使っています。
これは瓦が凍結して破損することを防ぐためですが、石瓦を天守に使用している例は他にはありません。
丸岡城天守は、建てられてから火災などにはあっていませんが、残念ながら昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊しました。
可能な限り倒壊前の建材を活用して再建されたのが、現在の天守です。
7 弘前城天守(青森県)
弘前城は、津軽地方を平定した津軽信枚(のぶひら)が慶長16年(1611)に築城した平山城です。
元は五重の天守でしたが、落雷で焼失。
文化7年(1810)に本丸にあった辰巳(たつみ)櫓と呼ばれていた南東角櫓を改築して、天守の代用としたものが、現在の天守です。
「御三階櫓」と呼ばれる三重三階層塔型独立式天守ですね。
現在、天守があった場所の石垣が修理中のため、曳家(ひきや)という工法で本丸の方に引き寄せられています。
弘前城天守は、大手門から入城してきて下乗橋から見る姿が最も美しく見えるように、二ノ郭側の東面と南面の一重目と二重目に切妻破風の出格子窓が付けられています。
しかし、下の写真でもわかるのですが、本丸(右)側には破風や出格子窓はまったくなく、窓も格子ではなく方形の窓が付けられているだけです。
初めてそれを知ったときには「あれ?」てなりました……。
弘前城には、大手門を含め立派な二重櫓門が五基、三重の隅櫓が三基遺構として残っていますよ。
東北屈指の名城です。
【参考文献】
日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)他
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