因島水軍城は、日本で唯一「水軍城」を名乗る城です。
しかし、歴史的に根拠のある城ではありません。
実は歴史資料館で、なぜか山の中腹にあります。
因島水軍城は、水軍のふるさと因島にふさわしいものをと歴史家奈良本辰也氏が監修して、昭和58年(1983)に建設されました。
因島村上氏が残した武具や遺品、古文書などの歴史資料の展示と、観光のためのランドマークとして造られた城郭風建築物ですね。
瀬戸内海のしまなみ海道の途中にある、因島(尾道市因島)の平山城です。
因島水軍城へは、1998年11月7日に登城しました。
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南北朝時代から戦国時代にかけて芸予諸島を中心に、瀬戸内海で活躍した村上海賊(水軍)。
宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊を「日本最大の海賊」と呼んでいたそうです。
その時代の瀬戸内海の制海権を握っていた、いわば海の大名でした。
村上氏は、瀬戸内海を航行する船から運航料を徴収し、卓越した航行術によって船の水先案内を担い、瀬戸内海を航行する船の安全を守っています。
戦国時代は、安芸の毛利氏や小早川氏など有力武士と連携し、水軍として海上輸送や海上での戦いで活躍していました。
有名なのは、織田信長が天正4年(1576)に、大坂の石山本願寺を攻めたときの木津川口の戦いです。
この戦いで信長方水軍は、石山本願寺に兵糧を運ぶ毛利方水軍を攻撃します。
しかし、毛利&村上水軍を中心とする毛利方の水軍の攻撃を受け、信長方水軍は壊滅的な敗退をしました。
特に、村上水軍が考案した「焙烙火矢(ほうろくひや)」による攻撃で、織田方の水軍(木船)は、瞬く間に燃え上がり沈没してしまったそうです。
その後、信長は志摩の九鬼水軍に命じて、鉄板を貼った船(鉄甲船)を築造させ、やっと毛利・村上水軍に勝つことが出来たとか。
この村上氏は、因島の村上氏、今治能島の村上氏、来島の村上氏の三家に分かれていて、瀬戸内海のほぼ全域を支配していました。
瀬戸内海には、村上海賊の他、松山の方には忽那(くつな)海賊が活躍していましたよ。
因島水軍城は、標高124mの片苅(かたかり)山の中腹に建てられていますが、ここは麓にある金蓮寺(こんれんじ)の境内にあたります。
金蓮寺には、因島村上氏の代々の墓(五輪塔)がある、村上氏の菩提寺です。
金蓮寺の住職が、因島村上水軍ゆかりの資料展示と因島観光のために、因島水軍城を造ったようです。
因島水軍城は「本丸」、「隅櫓」、「二の丸」という三つの城郭風の建物からなっています。
「本丸」は水軍資料館となっていて、因島村上氏6代当主の村上吉充(よしみつ)が中国から持ち帰った釈迦涅槃図や、小早川隆景(たかかげ)より拝領したと伝わる甲冑など、村上水軍ゆかりの武具や遺品、また広島県の重要文化財に指定されている「村上家古文書3巻」などの歴史資料が中心に展示されています。
「隅櫓」は、因島水軍まつりの写真展示と展望台です。
ここからは眺めを楽しめます。
そして「二の丸」には、人形で再現した水軍戦法会議の様子が展示されています。
能島と鯛崎島両島を合わせて城郭となっていた、能島村上氏の能島城址(「続日本100名城」第178番)です。
現在は無人島なので、船をチャーターしないと能島城址には行けません。
残念なことに、私も未探訪の城址です。
能島城は、島の最高所に本丸、周囲を二の丸が取り囲み、西側に三の丸、南端に出丸が置かれているとのことですよ。
ちなみに能島村上氏は、天正15年(1587)に小早川隆景(たかかげ)に従って筑前に移り、能島城は廃城となりました。
村上海賊についてはこちらをどうぞ。
*因島水軍城詳細
・アクセス:バス停土生港から因の島バス、因島大橋・久保田橋行で20分、その後水軍城入口下車徒歩12分
・営業時間:AM9:30~PM5:00 / 入城はPM4:30まで(但し、1月2日・3日はAM10:00~PM3:00)
・休業日:毎週木曜日(祝日除く) / 12月29日~翌年1月1日まで
【参考文献】
日本城郭協会監修『続日本100名城 公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、尾道市HP他
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