▼PR
88回目です。
今回は、岡山県の鬼ノ城(きのじょう)を紹介します。
鬼ノ城は、一般的には古代朝鮮式山城と呼ばれる城で、日本最大級規模の古代の山城です。
昔話「桃太郎」の鬼ケ島のモデルともいわれています。
「日本100名城」(第69番)に選定され、別称は鬼城山(きじょうざん)城です。
鬼ノ城へは2002年6月23日に、足守陣屋跡を探訪した後で登城しました。
私が行った時は、発掘調査がほぼ終わった頃でしたが、整備・復元がそれほどなされていないときでした。
山頂の手前に、鬼ノ城の復元過程や遺跡が出土した際の様子を紹介した「総社市鬼ノ城ビジターセンター」があります。
そこであらかじめ知識を入れていくのがおすすめですよ。
是非再訪したい山城です。
鬼ノ城は、神籠石(こうごいし)系の古代山城です。
同じ系統には九州大宰府周辺にある大野城(「日本100名城」86番)や基肄(きい)城(「続日本100名城」182番)があります。
鬼ノ城は歴史書には一切記されておらず、その歴史は解明されていない「謎の城」です。
鬼ノ城を説明する前に、当時の状況と大和王朝の動きを少し詳しく説明しておきますね。
天智天皇の時代の663年、大和王朝軍は朝鮮・白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に破れ、朝鮮半島から撤退します。
朝鮮からの追撃を恐れた大和王朝は、北九州から瀬戸内海にかけていわゆる「西域城塞」を築いていくとともに、都を近江大津に移します。
では天智天皇が朝鮮からの追撃に備えてどんな防衛策をとったのかを、『日本書紀』の記述からまとめてみましょう。
まず北九州の大宰府の防衛に力が注がれました。
天智3年(664)博多湾から大宰府に至る御笠(みかさ)川をせき止める形で水城(みずき「続日本100名城」182番)を築きます。
水城は、福岡平野が最も狭くなったところで長さ1km、基底の幅37m、高さ10~14mの直線的な大土塁を築き、博多側の外濠と大宰府側の内濠を組み合わせた巨大な防塁です。
また、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽火台(とぶひだい=のろしだい)を配備します。
朝鮮からの攻撃からの防御とそれを大宰府に知らせるためでした。
翌年には、百済系の渡来人を用いて、大宰府の北側の標高約410mの大野山に大野城、南側に標高404mの基山に基肄城を、水城を両側から守る形で建築。
その後、天智6年には防衛の最前線の城として対馬に金田城(かねだのき)を、讃岐に屋嶋城(やしまのき)を築きます。
また、大阪府と奈良県の境にある標高488mの生駒山頂には、高安城(たかやすのき)を築き、最後の防衛線とし唐・新羅軍の侵入に備えました。
天智9年に長門に1城、筑紫に2城を築城します。
数年の間に急造されたこれらの西域城塞は、日本が大和王朝によって統一され、初めて直面した外国との戦いに備えた国防城塞です。
国家的な見地から、国の力で築城された山城ですね。
私は2005年12月8日に基肄城、大野城、水城を攻城しましたが、初めて見る古代朝鮮式山城を驚きをもって探訪しました。
▼関連記事
******************************
さて、鬼ノ城です。
鬼ノ城は大野城や基肄城などと違って文献には記録がないため、築城に関してはあまり分かってはおりません。
しかし、基肄城などと同じような造り方であることは発掘調査によって明らかになっています。
おそらく、大和王朝が築いた大野城や基肄城の西域城塞と同じ頃に築城されたのでしょう。
鬼ノ城は、総社平野を見下ろす標高約400mの鬼城山の山頂に築かれています。
南側と東側は断崖絶壁で、鬼城山の8~9合目を2.8kmにわたって鉢巻状に城壁が取り囲んでいました。
古代山城のなかでも、本来は区分けされる神籠石系山城と古代朝鮮式山城両方の特徴を備えた特異な城址といわれています。
版築土塁(※)といわれる城壁(土塁)と石垣がめぐらされ、四ケ所の城門と城域内の排水のための水門が六ケ所確認されています。
また、食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡や狼煙(のろし)場、貯水池と思われるところも発見されています。
※版築工法:土を建材に用い強く突き固める方法で、堅固な土塁や建築の基礎部分を徐々に高く構築する工法。
西門の敷石 by:photo-ac
復元されている西門周辺には、版築土塁、高石垣、角楼(城壁が凸字形に突出したもの)なども合わせて復元。
天然の要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力があります。
鬼ノ城からは、眼下に総社平野、岡山市街が一望でき、児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県で、何と高松市の屋嶋城などが視野に入ってきます。
西から瀬戸内海を攻め上がって来る敵をいち早く発見することができる場所に築城されていることが分かりますね。
******************************
岡山観光WEB公式サイトにあるタイムラプスおかやまの動画がとても奇麗なので、ぜひご覧ください。
また、こちらは鬼ノ城がある総社市の公式観光WEBサイトにある、鬼ノ城サイトです。
俯瞰地図などがあってわかりやすいので、こちらもぜひどうぞ。
【鬼ノ城と桃太郎伝説】
鬼ノ城をめぐる次のような話が、吉備津神社に伝わっています。
崇神天皇もしくは垂仁天皇のころ、異国の鬼人が空を飛んで吉備の国へやってきた。
名前は温羅(うら)、百済の王子であったという。
鬼ノ城山に居を構え、婦女子を掠奪し、瀬戸内海を通る船を襲っては略奪の限りをつくしていた。
人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた。
大和王朝は皇子の五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を温羅討伐に向かわせた。
温羅は激しく抵抗するが、ついに破れ、首を切られて晒された。
しかし、犬に食われてドクロとなってもいつまでもうなり続けていたので、吉備津彦(きびつひこ)と名を改めた命は、ドクロを吉備津神社の釜殿の下に埋めてしまった。
するとある夜、亡霊が現れて命に
「私の妻を釜殿に奉仕させていただきたい。世の中に大事が起これば、私は釜を鳴らせて告げましょう」
といった。
これが総社にある吉備津神社の鳴釜(なるかま)神事の由来です。
この話は上田秋成の『雨月(うげつ)物語』にも載せられている有名な話ですね。
桃太郎の故郷と称する地は岡山県以外にもありますが、吉備の国のキビ団子や岡山の白桃など道具だても揃っています。
しかし、何よりも古代の吉備地方は出雲とともに大和とならぶ一大政治・文化圏でありました。
それゆえ、勢力拡張を図っていた大和王朝は、吉備国の掌握に力を注いでいます。
大和王朝の天皇の子供が、吉備国に居て悪逆の限りをしている異国の鬼(隣の国の王子を鬼というかなあ)を退治する、という話はとても暗示的で面白い話といえるでしょう。
*おまけの城の話*
【屋嶋城址】
6月20日(2022年)、四国八十八ヶ所巡拝で第八十四番札所屋島寺を参拝したときに、再度屋嶋城址を訪れました。
鬼ノ城で説明したように、屋嶋城は大和王朝が外国の攻撃から大和を守る国家防衛のために築いた、古代朝鮮式山城と呼ばれる城です。
屋嶋城は、もともと屋嶋と呼ばれた島の山上に築かれていました。
山上の周囲はほとんどが断崖で、断崖の切れ目に城壁が築かれています。
『日本書紀』には、「讃岐国に屋嶋城(やしまのき)・対馬国に金田城(かねだのき)を築く」と記されていましたが、考古学の点からは山上に遺構が見つからず、実態のない「幻の城」といわれていました。
しかし、長年の間屋嶋城の存在を信じ、個人でずっと調査していた高松市の一市民・平岡岩夫氏が、平成10年(1998)についに山上の石塁を発見します。
発掘調査の結果、城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の屋嶋城の存在が明らかとなりました。
城門の背後は岩盤で覆われています。
門から入った敵は直進できず、周囲から攻撃を受ける構造です。
古代朝鮮式山城は、朝鮮半島の山城をルーツとする様式の城といわれています。
城門の入口に侵入しにくい段差ある城壁を設け、普段は梯子、木段などで出入りし、戦闘時は撤去する城門です。
写真ではわかりにくいのですが、鉄骨の階段が設置されているところが城壁の入口です。
下から2m余りの高さのところに門の入口が作られています。
防御機能を高める構造で、鬼ノ城と大野城に類例があります。
*鬼ノ城詳細
・アクセス:JR総社駅からタクシー約30分、下車徒歩約10分
・営業時間:8:30~17:00(鬼城山ビジターセンター)
・休業日:月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
▼PR
【参考文献】
日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城 其ノ参』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、井上宗和著『日本の城の基礎知識』(雄山閣出版 平成3年7月5日再版)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日第1版1刷発行)、「鬼ノ城」(ウキイペディア)他