日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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九州城巡りの旅! 肥薩線と4城を堪能

肥薩線を走る「いさぶろう・しんぺい」号   by:photo-ac

今回は、20年も前の城巡りの記憶です。

2002年6月7日に、念願の熊本城肥薩線の旅(2泊3日)をしたくて熊本に飛んだ私。

7日に熊本城と八代城を探訪して熊本で1泊、郷土料理と焼酎を堪能しました。

翌8日、乗り鉄には憧れの肥薩線にいよいよ乗車!

ループ線や車窓の景色を存分に楽しみましたよ。

吉松駅、隼人駅を通り過ぎ、宮崎経由で延岡城を攻城。

このとき、宮崎で郷土料理の冷や汁を初めていただきましたが、大変美味しいものでした。

中央通りにある居酒屋の女将さんの話し方が高知弁に似ていたので伺うと、わが故郷高知から嫁いできたとのこと。

( *´艸`)!!!

思いがけない出会いで、楽しい期間を過ごせたのが良き思いでです。

翌日は、佐土原城を攻城。

宮崎空港内の店で地鶏炭火焼きを食べながら、一人酒をゆっくり楽しんで帰阪しました。

2泊3日の鉄道と城址を楽しむ、充実した旅でした。

では、巡った順番に、城を紹介していきますね。

なお、このときに攻城はしていませんが、人吉城(同年7月27日に攻城)も紹介しています。

注)肥薩線は、2023年7月1日現在、2020年7月の豪雨災害の影響で、八代~吉松駅間の運転を見合わせています。

①熊本城

熊本城 手前が宇土櫓、奥が大天守と小天守(左)   by:photo-ac

熊本城は、15世紀の後半、現在の熊本城の東側に出田(いでた)氏が築いた隈本城が起源です。

その城を、佐々成政に代わって入封した加藤清正が、慶長12年(1607)に、52万石にふさわしい壮大な城として完成させ、熊本城と改名しました。

建物の大半は、明治10年(1877)の西南戦争で焼失したのですが、大・小天守をはじめ櫓門などが多数復元されていますよ。

熊本城は、言うまでもなく「日本100名城」に選定されています。

 

②八代城

八代城欄干橋    by:photo-ac

天正16年(1588)、小西行長は麦島城を築きます。

しかし、行長は関ヶ原の戦いでは西軍に属していたため敗戦。

戦いの後、八代は熊本城主加藤清正の領土となりました。

元和5年(1619)の地震で麦島城は崩壊してしまいます。

一国一城令の発布後ではあったのですが、島津氏への押さえの拠点として幕府から特別に許され、加藤忠広が城地を現在の地に移して八代城を築城。

五重の大天守と二重の小天守が建造されました。

寛永9年(1632)忠広が改易されると、小倉から細川忠利が熊本城に入城。

そのため八代城には、父の細川忠興が隠居城として入城します。

忠興が83歳の高齢で亡くなった後、正保3年(1645)からは、加藤家筆頭家老・松尾興長(おきなが)が城代となり、松尾氏で明治を迎えました。

八代城は「続日本100名城」に選定されています。

 

八代城の攻城を終えて、いよいよ肥薩線です。

肥後国の八代から薩摩国の隼人を結ぶ肥薩線は、九州の山の中を走る昭和2年(1927)までの鹿児島本線でした。

現在、肥薩おれんじ鉄道が走っている海岸線(旧鹿児島本線)でなく、山の中の鹿児島本線を無理やり開通させたのは、高官の「海からの艦砲射撃を受けることのない山の中を通せ」と言う言葉で決まったそうです。

筆者撮影

 

人吉城

人吉駅とからくり時計(右の天守模型)    by:photo-ac

人吉駅から球磨川を渡ったところに「日本100名城」に選定されている人吉城があります。

人吉城は、鎌倉時代に築城された城です。

源頼朝の命により入城した相良長頼が、明治まで城主を務めました。

平成5年(1993)に角櫓や長塀、多聞櫓などが再建され、現在も累々とした高石垣が遺構として残っていますよ。

最上段の石を突き出させた「武者返し」と言われる、珍しい石垣が見られます。

駅前にある小さな三重の天守模型はからくり時計で、決まった時間になるとお殿さまや太鼓踊りの人形が躍り出すのが見どころです。

左から角櫓、長塀、多聞櫓   by:photo-ac

 

名刺などがたくさん貼られている大畑(おこば)駅舎内  by:photo-ac

ループ線スイッチバックの説明図  筆者撮影

大畑駅スイッチバック    by:photo-ac

大畑駅は、日本で唯一のループ線の途中にあるスイッチバック駅です。

山の中にある駅で、周辺に人家はありません。

春になると駅周辺で桜が咲き誇るさくらの名所だそうです。

三大車窓の一つ 正面は霧島連山    by:photo-ac

肥薩線最高地点にある矢岳駅を過ぎると、車窓から「日本三大車窓」といわれる景色が見えます。

えびの盆地と霧島連山を見渡す雄大な景色が楽しんでください。

観光列車「いさぶろう・しんぺい」号の車内放送で観光案内があり、見どころでは写真を撮ったり、ゆっくり景色を眺めることが出来るように停車してくれます。

真幸駅に設置されている「幸せの鐘」を打つ筆者

真幸駅の手前でもう一度スイッチバックします。

肥薩線嘉例川駅舎      by:photo-ac

嘉例川(かれいがわ)駅は、明治36年(1903)1月15日に開業した、鹿児島県内でもっとも古い木造駅舎です。

「百年の木造舎」が嘉例川駅舎のキャッチフレーズとなっています。

多くの観光客が訪れていますが、その多くは車で来ているのですよね。

さまざまな事情があることは理解しますが、どうか肥薩線を守るためにも、たとえ不便でも車ではなく列車に乗って来てほしいものです。

愛媛県予讃線で有名な下灘駅も同じでした。

多くの人が車でやって来て、写真を撮り、見ていくだけです。

残念ですね。

 

延岡城

延岡城 千人殺しの石垣    by:photo-ac

延岡城は、県(あがた)城、亀井城ともよばれていた城で、慶長8年(1603)に高橋元種が完成させた城。

日向灘へと注ぐ大瀬川と五ヶ瀬川の中州にある、小高い山を活かした天然の要害です。

山上に本丸・二の丸・三の丸を置き、西側に藩主の居館が建つ西の丸を置く縄張りでした。

天守は築かれず、三重櫓が代用されたようです。

元種は城下の整備にも努めましたが、慶長18年に改易。

その後、城主は有馬、三浦、牧野、内藤氏と変わりました。

有馬氏の時代に城を大修築・整備して城名を延岡城と改めています。

現在、城山公園になっている延岡城址には、「千人殺し」と呼ばれた約22mもの高石垣が遺構として残っています。

物騒な呼び名ですが、この石垣には仕掛けがあるという伝説が残っているのですね。

それは、要の石を外すと石垣全体が崩れて千人もの敵を殺すことができるというもの。

使われたという史実がないためあくまでも伝説ですが、すごいですよね。

天守台には、延岡で中学時代を過ごした歌人若山牧水の歌碑が建てられています。

延岡城は「続日本100名城」に選定されています。

 

佐土原城

佐土原城二の丸復元御殿    by:photo-ac

佐土原城は、建武年間(1334~38)に、伊東氏の一族・田島休助が築城したと伝わっている山城です。

別称は鶴松城。

天文5年(1536)、伊東氏の当主・義祐(よしすけ)は、都於郡(とのこおり)城が焼失したため佐土原城に移ってきました。

しかし、なんと佐土原城も焼失。

結果的に宮崎城に移ります。

そして、天文11年頃に佐土原城を再築城して戻ってきました。

天正7年(1577)には島津氏の領土となり、さらに江戸時代には佐土原藩薩摩藩支藩)の居城でした。

佐土原城は、天守をもつ最南端の城郭でしたが、現在は麓に二の丸御殿の一部が復元(鶴松館)され、佐土原歴史資料館が建てられています。

佐土原城は「続日本100名城」に選定されています。

 

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【参考文献】
平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第1版第1刷発行)他