日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第120回 大分県 大分府内城

大分府内城西の丸西南隅櫓     by:photo-ac

お城大好き雑記も120回目になりました~!

既に120城も紹介しているのですね……感慨深いものがあります。

今回は、大分県の大分府内城です。

豊後国国府が置かれていた大分市には、戦国武将の大友宗麟が本拠として、大友館を置いていました。

その大友氏滅亡のあと、慶長2年(1597)に福原直高(なおたか)が入封、新たに築城したのが府内城の始まりです。

大分川の河港に築かれた平城で、「日本100名城」(第94番)に選定されています。

別称は、荷揚(にあげ)城、白雉(はくち)城、大分城です。

私は1999年の9月3日に登城しました。

 

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復元された大手多聞櫓門    by:photo-ac

鎌倉時代以後、大分市周辺を支配していたのは大友氏です。

大友氏は義鎮(よししげ 宗麟)の時代に、九州の大半を支配する戦国のキリシタン大名として君臨していました。

しかし、次の義統(よしむね)は、文禄2年(1593)に豊臣秀吉朝鮮出兵の戦いでの不手際により改易となります。

翌年に早川長敏が入封するも、慶長2年(1597)になると福原直高が、臼杵6万石から、12万石の領主として入封してきました。

直高は豊後水道と大分平野を掌握するため、大分川の河港「荷落」(におち)の浜に新たに近世城郭としての城を築きます。

慶長4年にはほぼ完成したので入城、「落」を改めて「荷揚城」とします。

これが大分府内城の始まりですね。

しかし何と、直高は入城1カ月後に改易されます。

理由は、直高が石田三成の妹婿だったためです。

徳川家康による表向きの改易理由は「大分城築城は無益な工事で、領民を苦しめたから」だったといわれていますが、関ヶ原の戦いの布石でもあったのでしょう。

その後早川長敏が入城してきますが、関ヶ原の戦いでは西軍に参加し、早川も失脚します。

大分城址公園    by:photo-ac

翌慶長6年(1601)に、竹中半兵衛の一族である竹中重利(しげとし)が替わって、35,000石で入封してきます。

重利が入城したときは、城は未完成で天守や櫓などは出来上がっていませんでした。

そのため重利は熊本城の加藤清正の協力を得て、水運や海運に重きを置いた城郭を完成させ、府内城と改称します。

しかし重利の跡を継いだ重義(しげよし)は、長崎奉行在任中の不正事件が発覚し、切腹のうえ除封。

新たに、下野国壬生城から日根野吉明が入城するも、吉明は後継ぎがなく一代で断絶します。

次々と城主が替わっていく大分府内城は、呪われた城だったのでしょうか。

中々の怖さですよね。

その後、万治元年(1658)になって大給(おぎゅう)松平忠昭(ただあき)が、22,000石の城主となり、ようやく城主変更の波が落ち着きます。

以後、松平(大給)氏10代が城主を務め、明治を迎えました。

 

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「府内城絵図」(『城と城下町 西の旅』より)

上の「城絵図」から分かるように、城は北側の別府湾から少し内陸部寄りで、南側を正面としています。

東側は大分川を天然の濠とし、北東隅に本丸を設置。

本丸の東・南・西側に囲むように二の丸、北西に山里丸(北の丸)を配し、広く三の丸を梯郭式に配した縄張りです。

本丸などの各曲輪を水濠が囲んでおり、城下町も総構の濠で囲んだ堅城ですね。

城を基準に、城下町は碁盤目に整然と置かれています。

大分府内城は平城ですが、北側の川口には舟番所を設け、中島には米蔵舟入り、町屋の南東と北西にも舟入を設けているため、海城ともいえますね。

本丸には、四重四階の天守を建て、本丸や二の丸などに二十五基もの櫓が建てられた大城郭でした。

寛保3年(1743)に城下から起こった火災で、天守をはじめ二の丸、三の丸、山里丸など多くの建物を焼失。

さらに宝永4年(1707)、明和6年(1769)、安政元年(1854)に起きた地震により、城は損傷を受けます。

城はその都度復興されましたが、天守や本丸の櫓や多聞は再建されることはありませんでした。

現在は宗門櫓と人質櫓が遺構として残っていますよ。

そして、城跡は大分城址公園です。

西の丸西南隅櫓 右後方に小さく見えるのが東の丸西南櫓   by:photo-ac

昭和20年(1945)の戦災によって、大手多聞櫓門、東の丸西南櫓、西の丸西南隅櫓を焼失しました。

その後大分市は、昭和41年(1966)に大手多聞櫓門、東の丸西南隅櫓、西の丸西南隅櫓を復元しています。

東の丸西南櫓は着到櫓ともいわれていました。

廊下橋     by:photo-ac

廊下橋は西の丸と山里丸を結ぶ屋根付きの橋です。

平成9年(1997)に再建されました。

大分城仮想天守イルミネーション    by:photo-ac

 

大分県城址探訪の旅】

1999年9月3日から1泊2日で、大分県の4城址を探訪しました。

どの城址も見ごたえがあり、とても満足した2日間でしたので、かなり古い記憶ですがここで振り返ります。

 

3日

岡城(日本100名城

岡城へは、豊肥本線豊後竹田駅で下車し、タクシーで行きました。

滝廉太郎作曲の「荒城の月」の舞台となったといわれている岡城は、立派な高石垣で有名な日本最大の山城です。

大手道のカマボコ塀が遺構として残っており、珍しいものですよ。

山頂の城址滝廉太郎銅像が設置されています。

観覧券が「登城手形」という紙製の栞で、その後ずっと愛用しています。

岡城大手道とカマボコ塀(右側)  by:photo-ac

 

府内城(日本100名城

上記のとおり、復元された廊下橋を楽しみました。


4日

佐伯城(続日本100名城

日豊本線佐伯駅から城下町を楽しみながら歩いていきましたが、結構な距離でした。

山頂の本丸までは20分ほど登ります。

八幡山山頂に築城され、三重の天守や二重櫓が5基も建てられていて、山城では大規模な城郭だったようです。

山上の工夫を凝らした連郭式の縄張りと総石垣の城址は、なかなか見ごたえのある城郭でした。

麓に三の丸渡櫓門が遺構として残っていました。

三の丸渡櫓門    by:photo-ac

 

臼杵城(続日本100名城

日豊本線臼杵駅まで戻り、歩いて臼杵城に。

大友宗麟が築城した臼杵城は、島津氏の大軍にも落城しなかった堅城です。

もともとは臼杵川の河口の島に築かれた城郭でした。

大手口のカマボコ塀と重箱造りの畳櫓、卯の寅口櫓が遺構として残っていました。

大手道土塀と畳櫓    by:photo-ac

 

*大分府内城詳細

・住所:大分県大分市荷揚町73-75

・アクセス:JR日豊線大分駅から徒歩約10分

・営業時間:24時間

・定休日:なし

 

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【参考文献】
平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真第図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)他

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