日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第121回 高遠城

桜雲橋と桜 向こう側が本丸   by:photo-ac

121回目です。

今回は、長野県の高遠城と参りましょう。

高遠城は小さな城郭ですが、要塞堅固な名城として名を馳せた平山城でした。

残念なことに遺構はほんどありません。

しかし、旧藩士たちが植えた約1500本のタカトウコヒガンザクラで有名な、桜の花がとてもよく似合う名城です。

別称は兜山(かぶとやま)城、甲山(かぶとやま)

日本100名城」(第30番)に選定、国の史跡にも指定されています。

私が高遠城へ登城したのは、2002年4月20日のことでした。

このときは、有名なタカトウコヒガンザクラを観にいくパック旅行で妻と一緒だったのですが、残念ながら桜は散ったあとでしたね。

妻には内緒ですが、実のところ、私にとってはむしろそのほうがよかったのです。

ゆっくりと城址を探訪できましたので。

 

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高遠城址    by:photo-ac

現在は小さな町に過ぎない高遠は、古代や中世には交通の要衝で重要な場所でした。

高遠を中心にして、諏訪へ、伊那へ、大鹿をへて遠く駿河遠江三河まで道が届いていたのです。

高遠氏は諏訪氏の一族で、当時この一帯を治めていた豪族ですが、天文14年(1545)に武田晴信(信玄)が降伏させました。

信濃統一をめざす晴信(信玄)は軍師の山本勘助に命じ、伊那谷支配の拠点として高遠城を築城。

天文16年に完成した高遠城は、その形から兜山城とも呼ばれました。

高遠城は、三峰(みぶ)川、藤沢川が合流する台地の上に築城された要害の城郭です。

天正10年(1582)、織田信長は武田氏討伐の命を発します。

織田信長の長男・信忠の3万とも5万ともいわれる軍勢が、木曽谷、伊那方面から侵攻すると、晴信(信玄)亡き後の武田方は戦うことなく城を明け渡すことにしました。

ところが、高遠城を守る晴信(信玄)の五男・仁科盛信(にしな もりのぶ)は、信忠の降伏勧告を一蹴。

なんと、わずか100名にも満たない城兵で織田軍を相手に武田武士の意地をみせます。

このときは城兵だけでなく女子供も一緒に戦って、壮絶な最期を遂げました。

高遠城陥落で追い詰められた武田勝頼は、その数日後自刃、武田氏の時代は終わりを告げます。

大きくて深い空堀    by:photo-ac

本能寺の変を挟み、高遠城主もたびたび変わりました。

やがて、武田氏築城後の最初の城将であった保科氏が返り咲き、家康の傘下に入り、伊那半郡を与えられます。

保科氏は、小田原の戦いの後、一時下総多古(しもうさ たこ)に所替えとなっていました。

しかし、保科正光(まさみつ)は慶長5年(1600)に、旧領高2万5,000石を与えられ、再び高遠城主になったのです。

さらに正光は、徳川2代将軍秀忠の子である幸松(のちの正之 まさゆき)の養育を任され、5,000石加増されます。

2代目藩主保科正之像    by:photo-ac

保科正之と改名した将軍・徳川秀忠の子が、寛永8年(1631)に2代目高遠藩主として就任。

寛永13年には出羽国山形藩へ20万石で移封します。

保科正之といえば名君で知られた人物ですよね。

彼は、のちに会津初代藩主となりました。

3代将軍家光の異母弟でもあります。

保科正之の逸話で有名なのが、徳川幕府が、明暦3年(1657)の大火で焼け落ちた江戸城天守を建造しようとしたときのもの。

この保科正之が「平和な時代に天守は必要なし」と主張し、江戸城天守建造は取りやめに。

そしてその費用が、江戸の防災の費用として使われた話ですね。

ちなみにその後、徳川幕府本城の江戸城には、天守が建造されることはありませんでした。

高遠城では保科正之の移封後、鳥居氏を経て、元禄4年(1691)に内藤清枚(きよかず)が3万石余で入城し、内藤氏で明治を迎えます。

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「信州高遠城之絵図」(『城 3 甲信越 北陸』より)

高遠城は、断崖上に置かれた本丸を中心に、本丸の北から東側から包み込むように二の丸を設置。

そして、二の丸の外には北から東に三の丸が梯郭式に配されています。

城の北に勘助曲輪、南に南曲輪、法幢院(ほうどういん)とよばれる曲輪が出丸として置かれていました。

法幢院曲輪の弱点を補う形で、北西部には二段の腰曲輪を造設。

これは、甲州流兵法を取り入れた縄張りといわれています。

各曲輪は堀で区切られていて、すべて空堀です。

本丸に築かれた三重櫓を御三階と称し、天守の代用としていました。

城下町の方だけが開かれた「堅固な城郭」で、城下町の高台には寺町が置かれ、容易に城に近づけない配置となっていたのです。

高遠城は、築城後あまり大きな改修がされておらず、戦国時代の城郭の構えを今に伝えています。

残念ながら建築物の遺構はなく、わずかに石垣と空堀が残っているだけです。

しかし三の丸には、最後の藩主であった内藤頼直(よりなお)が万延元年(1860)に開設した藩校の進徳館の講堂や寄宿舎などが現存しています。

ぜひ訪れてくださいね。

現在、城跡は高遠城址公園として整備され、桜名所100選に選ばれていますよ。

本丸跡     by:photo-ac

太鼓櫓    by:photo-ac

太鼓櫓は、大正2年(1913)に、本丸の西南隅に再建されたもの。

時を告げる太鼓が置かれていました。

空堀     by:photo-ac

 

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藤原神社    by:photo-ac

内藤氏の始祖である藤原鎌足を祀る藤原神社が、城の鎮守として法幢院曲輪跡に建立されています。

後に仁科盛信を合祀して新城神とし、藤原神社・新城神社の社殿が本丸に移建されました。

高遠城からの遠景   by:photo-ac

高遠城からの遠景   by:photo-ac

高遠城の近くには、有名な小さな屋敷があります。

6代将軍家宣の時代に起きた絵島(江島)・生島事件で高遠に流された、大奥大年寄りの絵島が27年間幽閉された屋敷ですね。

昭和42年に復元・再築されました。

こちらもぜひ見学に、どうぞ。

 

伊那市のサイトもご参考ください。

www.inacity.jp

 

高遠城詳細

・住所:長野県伊那市高遠町東高遠

・アクセス:JR飯田線伊那北駅からJRバスに乗り「高遠駅」バス停下車、徒歩約20分 / JR中央本線茅野駅からJRバス(季節運行)に乗り「高遠駅」バス停下車、徒歩約20分

・営業時間:24時間

・休業日:なし

 

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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』『同 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編著『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)他

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