日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第125回 武田氏館

武田神社神橋    by:photo-ac

125回目ですね。

今回は、山梨県の武田氏館に参りましょう。

武田氏館は、甲斐国を治めていた戦国大名武田氏3代の居城で、平城です。

武田勝頼が韮崎(にらさき)の新府(しんぷ)城に移るまで住んでいました。

曲輪を巡る土塁がほぼ元の姿のまま残っており、領主の館を中心とした中世的な城の姿が見られます。

現在は武田晴信(後に出家して信玄)を祀った武田神社となり、観光客をはじめ多くの参拝客で賑わっていますよ。

別称は躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)です。

日本100名城」(第24番)に選定、国の史跡にも指定されています。

武田氏館へは2000年6月21日に登城しました。

※橋の向こうに見える石垣は、武田氏の時代に築かれたものではなく、後世のものです。

 

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武田氏館跡石柱    by:photo-ac

武田氏館の創建は、信玄の父・信虎(のぶとら)です。

甲斐源氏の流れをくむ武田信虎が、永正16年(1519)に石和(いさわ)の館から移り、新たに躑躅ケ崎に館を建てました。

それが武田氏館ですね。

領国内外の諸勢力を次々と制圧し、信虎は守護大名から戦国大名へとのし上がっていきました。

躑躅ケ崎館に移転してから10年程のうちに、信虎は戦国大名として甲斐国を平定します。

信虎は、館と一体化した城下町の整備に着手、領国経営の本拠地として、名前も甲斐の府中の意味で「甲府」と名付けました。

天守や櫓などがない武家の居館(方形居館)ではありましたが、広い水濠や土塁を巡らせ、同17年には背後の要害山に詰めの城として山城を築いています。

戦国時代前期屈指の、要塞堅固な城郭といえる館ですよ。

駿河の今川氏の軍勢が甲斐に攻め入ったとき、信虎夫人は要害の山城に逃げていて、そこで信玄を出産したといわれています。

城郭考古学で有名な千田嘉博(せんだ よしひろ)氏によると、武田氏館は、城の機能が備わっていた館城(かんじょう/やかたじろ)と呼ぶ、平城の古い形式の一種だったそうですよ。

JR甲府駅北口にある武田信虎像   by:photo-ac

武田神社裏手から望む要害山    by:photo-ac

武田信玄は、父の信虎を天文10年(1541)に駿府に追放し、32年間の領国経営を行います。

甲斐国が最も栄えたのも、甲斐の虎といわれた信玄の時代でした。

信玄といえば、「人は城、人は石垣、人は堀」という名言で有名ですね。

これは、父が造った武田氏館を改修して死ぬまで使い続け、甲斐国内には新たに城は造らず、家臣団の結びつきを強くし、戦国最強といわれる武田軍団を育てたことによります。

信玄の時代には、外敵に領内を攻め入られたことは一度もありませんでした。

天文22年(1553)に勃発した長尾景虎上杉謙信)との第1次川中島の合戦は有名ですね。

信玄は、謙信と5回も川中島で戦います。

風林火山」の旗の下、甲斐と信濃を統一し、駿河、上野の一部まで攻め取り、最大100万石を越える領土になったのです。

信玄は、自国の甲斐では城は造りませんでしたが、攻め取った信濃駿河では新たに城を築いています。

軍師の山本勘助馬場信房に命じて、信濃では小諸城海津城松代城)、高遠城駿河では江尻城、久能山城、丸子城などたくさんの城を造っていますよ。

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JR甲府駅にある武田信玄像   by:photo-ac

武田氏館は、信虎、信玄、勝頼(かつより)と3代にわたり約63年の間、甲斐国の政治・経済・文化の中心地でした。

武田氏館は、三方を山に囲まれた扇状地の頭部、天然の要害に築かれています。

現在は武田神社となっている正方形の主郭は、高さ3mの土塁と幅約10mの水濠が廻らされていました。

味噌曲輪、隠居曲輪といわれた北曲輪や、西曲輪、中曲輪、東曲輪が附設されている複郭式城郭です。

大手は東側に位置し、主郭には主殿と常の間や庭園が築かれていました。

館の南側には家臣団の屋敷が置かれ、寺社を含む城下町が展開されていたそうです。

城址には、武田氏滅亡のあと徳川家の家臣・平岩親吉(ちかよし)によって築かれた天守台がありますが、天守は築かれず、軍神の毘沙門天堂が建てられました。

「甲斐 古府中」(浅野文庫蔵諸国古城之図)(「趣味どきっ!お城へ行こう!」より)

武田氏館を囲む水濠    by:photo-ac

土塁と水濠     by:photo-ac

3代目の勝頼は、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川軍に敗れると、武田氏館を破棄。

同9年、新たに韮崎に新府(しんぷ)城を築いて移っています。

しかし完成のわずか2ケ月後、勝頼は新府城から脱出するときに自ら城に火をかけ、新府城は廃城となってしまいました。

そして武田氏滅亡後は、徳川の家臣である平岩親吉羽柴秀勝、加藤光泰(みつやす)が武田氏館の城主となり、大規模な改修工事を行ったようです。

武田氏館は、家康の命により甲府城が新たに築城されると廃城となり、破却されてしまいました。

大手の周辺は発掘調査が進み、武田神社の東は大手門史跡公園として整備されています。

武田氏館跡   by:photo-ac

 

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武田神社入口     by:photo-ac

武田神社本殿    by:photo-ac

武田神社は、天下制覇の望みを叶えることなく病没した武田信玄を祀って大正4年(1915)に創建され、大正8年(1919)には社殿が造営されました。

現在社殿のある一帯が、信玄の執務所のあった主郭や西曲輪跡です。

信玄の命日(4月12日)に近い4月上旬には「信玄公祭り」が行われていますよ。

武田神社本殿    by:photo-ac

社殿に隣接して宝物館があります。

太政大臣三条実美が寄進した重要文化財の「吉岡一文字の太刀」や、武田信玄が使っていた軍扇など、武田氏に関する資料が展示されていますよ。

ぜひお立ち寄りください。

 

*武田氏館詳細

・住所:山梨県甲府市府中町2611

・アクセス:JR中央本線 甲府駅北口より北へ一本道2.2km。バス約8分 武田神社下車

・営業時間:24時間

・休業日:無休

 

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【参考文献】

平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』『同 解説編』(日本通信教育連盟)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月205日初版発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、藤井尚夫『ドキュメント戦国の城』(河出書房新社 2005年11月30日初版発行)、講師千田嘉博NHK 趣味どきっ! お城へ行こう!~名将の素顔をお城が“語る”~」(日本放送協会 NHK出版 2016年2月1日発行) 他

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