日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書いていきます

お城大好き雑記 第82回 小諸城

小諸城三の門(懐古園入り口) by:photo-ac

82回目は長野県の小諸城です。

文豪・島崎藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」の「千曲川旅情の歌」で有名な小諸城址は、長野県民が誇る自慢の名所。

苔むした野面積みの石垣が古城の風情を今に伝えています。

小諸城千曲川の自然の地形を巧みに取り入れた、要害堅固な平山城です。

別称は酔月(すいげつ)城、白鶴城、鍋蓋(なべぶた)城、穴城あなじろ)で、「日本100名城」(第28番)に選定されています。

私が小諸城へ登城したのは2001年11月11日です。

 

小諸城址から千曲川をみる    by:photo-ac

小諸は信州と関東を結ぶ要衝として、戦略的に重視された場所です。

室町時代に入り、長享元年(1487)に大井光忠(みつただ)が大手門あたりに鍋蓋城を築きます。

また、その子・光為(みつため)が乙女坂(おとめざか)城とも白鶴城とも呼ばれた支城を、現在の二の丸跡付近に築きました。

この城を落城させたのは武田信玄

武田信玄はこの地の重要性に着目し、東信濃の拠点とするべく酔月城を築かせます。

命を受けたのは有名な軍師・山本勘助らでした。

このときはじめて本格的な城郭が誕生します。

天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、小諸城には織田信長の家臣・滝川一益(かずます)が入城します。

信長が亡くなり、城主は北条、徳川と変遷。

天正18年に起こった小田原攻めの戦功により、秀吉の家臣だった仙石秀久(せんごく ひでひさ)が5万石で入城します。

秀久は小諸城を織豊系の城郭に改修し、二の丸、黒門、大手門を建て、石垣などを築造しました。

久秀の子忠政は戦国の城郭だった小諸城を近世城郭へと作り変え、あわせて城下町の整備も行っています。

その後も整備を進め、慶長年間(1596~1615)後半頃に完成したといわれています。

新たに造られた小諸城は、城下町よりも低い地に造られた「穴城あなじろ)」と呼ばれた独特の地形の城

とても珍しいものでした。

天守台から桐紋が入った金箔瓦などが発見されたことにより、寛永3年(1626)に落雷で焼失した三重の天守は、仙石秀久小諸城改修のときに建造されたと考えられています。

江戸時代になり徳川幕府は、小藩の林立する信濃を押さえる城として小諸城を重視、幕府直轄の城として譜代大名が頻繁に交替・入城しました。

元禄15年(1702)に越後与板から牧野康重(やすしげ)が15,000石で入封。牧野氏10代で明治を迎えています。

現在城址は主要部が懐古園となり、三の門、袖塀、石垣や空堀が現存。

しなの鉄道をはさみ、市街地側に大手門と石垣の一部が遺構として残っていますよ。

 

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 小諸城縄張図(『城 解説編』より)

小諸城は、千馬川の河岸段丘の上に建てられ、千曲川を背にして両側を断崖に守られています。

深さ10m程度の空堀を何重にも廻らし、本丸、二の丸、三の丸といくつもの曲輪を構える瓢箪型の連郭式縄張りでした。

小諸城のような地形の城は、日本の各地にあったようですが、幕末まで残ったのは宮崎県の飫肥城とこの小諸城ぐらい。

古い築城形式を伝える貴重な遺構だそうです。

上の縄張り図の④と⑥の間の石垣に挟まれた狭い所が、懐古園の入り口・三の門があるところです。

門を入って右手に二の丸⑨、左手が南丸⑧。

北丸⑩と南丸に挟まれた道をまっすぐ行くと黒門⑪に至ります。

黒門を抜けると、自然石を積み上げた野面積みの石垣が残る本丸です。

本丸には天守台が残っています。

天守寛永3年に落雷で焼失、以後再建されることはありませんでした。

小諸城は、しなの鉄道の線路で城郭を分断され、三の丸あたりを線路が横切り、駅舎が建っていますよ。

小諸城大手門   by:photo-ac

重要文化財の大手門と石垣は、市街地側にあります。

江戸初期に仙石氏が江戸から大工を前いて築いたといわれる櫓門です。

当時、瓦葺の門は珍しかったため、瓦門と呼ばれていました。

仙石氏創建当時の面影を今に伝える数少ない遺構の櫓門です。

東日本では弘前城大手門と並ぶ豪壮な大手門ですね。

三の門   by:photo-ac

懐古園の入り口となっている小諸城三の門は、重要文化財です。

切込接ぎの石垣の上に造られた寄棟造の櫓門で、両袖の塀には矢狭間と鉄砲狭間が設けられています。

仙石秀久が城主を務めた元和元年(1615)に二の丸への入口の門として建てられたのですが、寛保2年(1742)の大洪水で壊れ、明和2年(1765)になって再建されました。

小諸城に今日まで残ってきた貴重な遺構ですね。

二の丸址   by:photo-ac

小諸城には深い谷のような空堀が、城の左右に数条穿たれています。

戦国時代の城郭では、空堀を通路によく用いていました。

空堀道」といって城に入ってくる者を確実にチェックし、迎撃出来るシステムです。

城址の南北にはその空堀跡が残っています。

このあたりの石垣は古い野面積みの石垣で、歴史を感じますね。

道から低い石段を登り二の丸や南の丸に入っていきます。

南の丸址   by:photo-ac

本丸の石垣 by:photo-ac

さすがに本丸や天守台石垣は高いですね。

野面積みの苔むした石垣が旅情をかきたてます。

石垣の角石は、算木積みの古い形になっていますよ。

天守台石垣 by:photo-ac

懐古神社    by:photo-ac

小諸城は明治になって廃城となりました。

明治13年(1880)に本丸跡へ牧野氏歴代藩主を祀る懐古神社を建立、三の門以内の地を懐古園と名づけ市民に開放しています。

二の丸跡には小諸城関連の武具などを展示する徴古館や藤村記念館などを建築。

また若山牧水自筆の歌碑がありますよ。

展望台から望む千曲川浅間山は、実に素晴らしい景色です。

 

2泊3日の長野県3城址巡り

2001年11月9日から2泊3日で長野県の3城址巡りを楽しみました。

9日は幕末も迫った慶応2年(1866)に築城され、龍岡城五稜郭とも呼ばれる龍岡城(「続日本100名城」第129番)にまず登城。

龍岡城水濠   by:photo-ac

この城は函館にある五稜郭と同じ星型(稜堡式)の城郭ですが、五稜郭の縮小版のような城郭で規模も小さく、石垣も低く星形も完成していませんでした。

その時は、城址には小学校があり、台所櫓だけが遺構として残っていました。

10日は、徳川軍からの攻撃を二度も防いだ真田家の難攻不落の上田城を探訪しました。

上田城東櫓門と北櫓(右側)  by:photo-ac

11日は小諸城を探訪です。

小諸城は城郭が城下町より低い位置にあるため「穴城」とも言われているのですが、懐古園の額がかかった三の門からは、その名のとおり下って城址に入ります。

苔むした石垣が「小諸なる古城のほとり」というイメージがぴったり。

天守台からの千曲川を望む景色は絶景でした。

 

小諸城詳細

・住所:長野県小諸市丁311

・アクセス:JR小海線しなの鉄道小諸駅より徒歩5分

・営業時間:平日9:30~16:30 休日9:00~16:30

・休業日:12~3月中旬は水曜日定休、年末年始(12月29日~1月3日)

 

【参考文献】

平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社2007年㋆15日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』及び『城  解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編著『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、他