日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書いていきます

お城大好き雑記 第81回 大垣城

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大垣城天守と戸田氏鉄公馬上の像

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81回目ですね。

今回は、岐阜県大垣城です。

大垣城は、昔から日本を東西に分ける軍事上・交通上できわめて重要な地である「大垣」に築城されました。

平城で、天下分け目の関ケ原の戦いでは西軍の石田三成の本拠地となり、籠城戦の舞台にもなった城です。

別称は巨鹿城(きょろくじょう)、糜城(びじょう)(糜=大きな鹿)、牛屋(うしや)城、「続日本100名城」(第144番)に選定されています。

私は大垣城へ、1997年の6月5日が初登城、そして20022年3月11日に再訪しました。

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東門と天守

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渡櫓の東門と丑寅(うしとら)櫓(右側)

大垣城は濃尾(のうび)平野の北西端あり、近畿と東国を結ぶ要路の東の出入口をにらむ要衝に築かれた城です。

「大垣」とは、「大きな垣根」を意味し、東国(とおごく)と西国(さいごく)を別する垣根の関門を表しています。

陸・川・海の要衝であり、「美濃(みの)を制するものは天下を制する」と言われるほどの軍事上最重要地点に築かれた城です。

古代にはその要路の途中に、日本三関の一つ「不破(ふわ)の関」も設けられていました。

大垣城の創建には、以下の説がありますが、定かではありません。

  1. 土岐氏の家臣佐々木信綱の子孫・竹腰尚綱(たけのこし なおつな)が明応9年(1500)に築城した牛尾城が今の大垣城のもとである
  2. 美濃の守護土岐氏(ときし)の一族宮川安定(やすさだ)が天文4年(1535)大尻に築城し大垣と改称したのがその起源である

天文年間においては本丸と二の丸しかない小城でした。

しかし永禄2年(1559)に氏家直元(うじいえ なおもと もしくは朴全 ぼくぜん)が城の土塁を高くし濠を深く掘って、城と城下町を取り囲む総構(そうがまえ)を構築して大規模な城郭としました。

要衝の地にある大垣城は、立地のため何度も攻防戦が繰り返され、創建から100年余りの間に10数回も城主が代わっています。

天正後期からは、羽柴秀吉が重視していました。

東国に対する「大事の要(かなめ)の城」として大垣城をみていたのですね。

そのため、秀吉の家臣や一族が一貫して城主を務めました。

天正18年(1590)に入城した伊藤祐盛(すけもり)によって城は修築され、天守が築かれています。

関ヶ原の戦いの翌年に石川康通(やすみち)が城主となりましたが、その後も譜代大名が次々と交代。

寛永12年(1635)に戸田氏鉄(うじかね)が10万石で入城し、城郭を大きく修築、近世的な城郭へと体裁を整えていきます。

以後約235年間、戸田氏が大垣城城主として存続し、明治を迎えました。

明治になり、建物のほとんどは取り壊され、濠は埋められていきましたが、天守丑寅櫓は残され、昭和11年に旧国宝に指定されています。

しかし残念なことに、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。

 

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大垣公園案内図

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戸田氏鉄公馬上の像

戸田氏鉄は武勇の誉高く、膳所3万石から尼崎10万石を経て、寛永12年に大垣藩10万石の藩主として移封されました。

戸田家は三河以来の徳川の家臣です。

関ヶ原の戦いでは家康の家臣として活躍。

島原の乱の時も出陣していました。

氏鉄は大垣に入ると、治水対策として山林の乱伐禁止や植林による山地の保水を図り、洪水時の河川からの逆水を防ぐため、牛屋川川口付近に門樋を築造するなど、治山治水事業を行っております。

尼崎でも治水事業を行っており、その手腕が評価され大垣への加増による移封となったようです。

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大垣城模型(大垣市郷土館内)

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大垣城本丸図(大垣城説明パネルより)

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大垣城縄張図(大垣城説明パネルより)

大垣城揖斐川(いびがわ)の氾濫による湿地帯を利用し、その水流を水濠に利用した広大な平城です。

帯曲輪をもつほぼ方形の本丸の南側に二の丸を連郭式に置いて廊下橋で結び、最大で約70mの幅のある広い内濠を巡らせ、二の丸に筋鉄門を開いています。

その外側を竹之丸、天神丸、三之丸で囲み、中濠を設置。

その外周に松之丸、八幡曲輪など外曲輪を築き、さらにその外に濠を巡らせています。

これでもかという感じですね。

門は桝形あるいは馬出がある大手門、柳口門などの七門。

さらに東南には城下をも囲む広大な総濠を廻らせ、東総門(名古屋口)と西総門(京口)の二つの総門で出入口を固めています。

牛屋川や水門川、豊富な自噴水を利用して三重・四重の水濠に囲まれたほぼ輪郭式といえる縄張りですね。

本丸の西北隅に四重の天守を建立し、三重櫓5基や二重櫓10基、多聞櫓16基を備えた、まさに「要の城」にふさわしい広大な城郭として、その威容を誇っていました。

大垣城は、その堅固さ、優美さから「巨鹿城」や「糜城」とも呼ばれましたよ。

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大垣城天守写真(大垣城説明パネル)

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復元天守

関ケ原の戦い以前からあった天守は、江戸時代初期の元和6年(1620)に松平忠良(ただよし)が改修、この形になったといわれています。

もとの天守は絵図によると三重でした。

それを「死(四)」を忌み嫌っていた当時の築城としては大変珍しい四重四階建てに改修しています。

どうして五重天守にしなかったのでしょうね。

多聞櫓を二つ持つ、白漆喰総塗籠の複合式層塔型天守です。

四重目に突き抜ける大きな千鳥破風が四方に付けられ、二重目の小さな千鳥破風ときれいな姿を見せています。

現在の天守は、昭和34年鉄筋コンクリート造りで外観復元され、内部は歴史資料館となっていますよ。

平成22年の天守改修では、天守屋根瓦(鯱瓦、鬼瓦、軒瓦など)を古写真などの検証により旧国宝時の姿に戻しています。

四重目の窓の形も元の形に近づけ、再建時に付け加えられていた破風の飾りなども取り外され、旧国宝時代の天守の姿により近く改修されました。

大垣市の取り組みは素晴らしいですね。

天守台は、自然石をそのまま利用した野面積みの石垣です。

本丸の石垣は赤坂の石灰岩が多く使われ、一部の石垣にはウミユリなどの化石が見られます。

天守の入り口にパネルで紹介されていました。

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大垣城説明パネル

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大垣城説明パネル

鬼瓦が邪鬼を踏みつけている大変珍しい鬼瓦です。

天守三重目の南西隅にあるそうです。

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天守からの景色 戸田氏鉄公馬上の像が左下に見える

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大垣城説明パネル 写真に光が入っているうえにぶれていてすみません

写真がぶれていて読みにくいと思いますが、面白い説明パネルを発見しました。

以前に書いたことがあるのですが、江戸時代になると藩主は天守に入ることはほとんどありませんでした。

江戸屋敷で生まれ育ち、藩主となって初めて領国の城に帰った時などに天守に登るかもしれないといった程度です。

そのことを説明したこのパネルを見つけたときは驚きました。

他の天守では見たことはありません。

もちろん、織田信長豊臣秀吉の時代の天守は違っています。

そのころは内部も豪華絢爛に装飾されていました。

江戸時代以降は住居と政務を行う御殿建築が中心となってきましたので、天守はないがしろにされはじめたのですね。

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渡櫓門の西門(本丸側)

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大垣公園側から見た天守と西門

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戌亥(いぬい)櫓と天守

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丑寅

大垣市天守復元に続いて、昭和34年に丑寅櫓をコンクリート造りで再建。

戸田家別邸の表門となっていた旧柳口門を移築して東門としました。

また同42年に戌亥櫓をコンクリート造りで復興、同60年に西門を模擬再建、本丸西・北側の土塀を復興して、本丸周辺の景観の整備を進めています。

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本丸への唯一の入り口は、二の丸から廊下橋を渡って本丸に入る鉄門でした。

鉄門は、門扉や柱などが鉄板で覆われていたところから名づけられています。

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明治29年大洪水が来た地点をしめす石垣

明治29年(1896)の大雨で大垣の町は天守以外の建物が水につかり、湖のようになって大変な被害を受けました。

そのとき城のここまで水がきたという洪水位が、金森吉次郎によって石垣の三段目の石に刻まれています。

この洪水の時、堤防を切って大垣の町を救った吉次郎の像が、鉄門跡の右側に建立されていますよ。

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大垣公園

明治になり、本丸や二の丸が保存整備され、大垣公園として市民の憩いの場になっています。

二の丸跡には藩祖・戸田氏鉄などを祀る常葉神社があります。

また、すぐ近くに大垣市郷土館があり、歴代藩主戸田公の顕彰が中心の展示がされています。

 

(写真は筆者が撮影したものです)

 

大垣城詳細

・住所:岐阜県大垣市郭町2丁目52

・アクセス:JR「大垣駅」南口から南へ徒歩7分

・営業時間:9:00~17:00

・休業日:火曜日・祝日の翌日・年末年始

 

 

【参考文献】

平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京棠出版 2002年㋆15日発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古地図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、「大垣城パンフレット」他