140回目になりました。
続いてます、お城雑記。
お付き合いくださる皆様、ありがとうございます!
今回は、静岡県にある二俣城です。
二俣(ふたまた)城は、天竜川と二俣川の合流する手前で形成している蜷原(になはら)台地の先端部にある、標高90mの天然の要害に築城されています。
平山城ですね。
武田氏と徳川氏の攻防の舞台となったこともある、戦国時代屈指の堅城として有名です。
また、武田と織田に挟まれた徳川家康が、嫡子の松平信康(のぶやす)に切腹を命じなければならなかった城としても知られていますよ。
日本100名城にも続日本100名城にも選ばれてはいませんが、隣にある鳥羽山城址とともに、国の史跡に指定されています。
別称は、蜷原城です。
二俣城は、2004年5月8日に登城しました。
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遠江(とおとうみ)国の要衝・二俣の地に城が築かれたのは、戦国時代の文亀3年(1503)です。
駿河国今川家の家臣である二俣昌長(まさなが)が築城したといわれています。
戦国期の二俣城は、川筋が現在と異なっていました。
二俣城の西に天竜川、東から南にかけて二俣川が流れていて、三方が天然の水濠となっていたそうです。
また、尾根筋は堀切によって遮断され、中心の本曲輪を土塁が巡る縄張りの要塞堅固の城だったようですよ。
二俣城は、駿河国今川氏、甲斐国武田氏、三河国徳川氏の戦いの最前線で、なんども激しい攻防戦が繰り広げられ、城主はそのたびごとに代わりました。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで織田信長に打たれた今川氏の二俣城を、永禄11年(1568)に徳川家康が領有します。
家康は、武田信玄の遠江侵攻に備え、二俣城を国境警備の要の城として大改修。
尾根筋に三本の堀切を増設して、本曲輪の防衛力を高めるために竪堀も配しました。
飲料水確保のために、本曲輪西側の下段に突出した井戸曲輪を配し、井戸櫓を置いていたと推定されています。
元亀3年(1572)の三方原(みかたがはら)の合戦で、武田信玄は二俣城を包囲して攻城しましたが、二俣城はなかなか落城しませんでした。
徳川家康の家臣である中根正照(まさてる)が守りを固め、善戦していたからです。
武田軍は、籠城している徳川軍が飲料水を井戸櫓で天竜川から汲み上げていることに気づき、上流からたくさんの筏を流して、この櫓を壊してしまいます。
水を断たれた二俣城はまもなく落城しました。
武田氏は二俣城を修築して、依田信蕃(のぶしげ)に守らせます。
しかし、天正3年(1575)の長篠の戦いで武田軍が敗れた後、二俣城は再び徳川方の城となりました。
徳川家康は、家臣の大久保忠世(ただよ)を城主とし、城の修復も行います。
天正18年の家康の関東移封にともない、堀尾吉晴が浜松城に入り、支城の二俣城には弟の宗光が入ります。
二俣城には天守が築かれ、本曲輪の主要部には石垣が廻らされた近世城郭に生まれ変わりました。
関ヶ原の戦いの後、堀尾氏が出雲に転封したことで、二俣城は廃城となりました。
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ここで、家康が嫡男である松平信康を自死させなければならなくなった事件について、紹介します。
通説では次のとおりです。
天正7年(1579)に、家康の嫡男・信康と家康の正室・築山殿が謀り、武田方と内通して信長を滅ぼそうと謀反をたくらんだ、と織田信長に疑われます。
信康は、信長から一字を貰って命名された家康の長男で、妻は信長の娘の徳姫です。
その徳姫が父・信長に夫・信康と築山殿が武田勝頼と内通していると手紙に書いて渡したのです。
信長は、二人の「始末」を家康に命じました。
信長の命に逆らえない家康は、涙をのんで長男信康と築山殿の始末を家臣に命じます。
21歳だった信康は二俣城で切腹。
現在、信康の墓は、二俣城と峰続きにある青龍寺の境内にあります。
この信康自刃事件については、いろいろな説があり真実は分かりません。
しかし、徳川幕府成立後にできた『三河物語』での話が通説化しているそうです。
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【静岡県4城址探訪】
2004年5月7日、出張で静岡に泊まりました。
翌8日は日曜日だったので、大学の先輩が車で、城郭マニアのわたしのために二俣城など静岡の4つの城址を案内、城の探訪が終わると浜松駅まで送ってくれました。
車でなければ、到底探訪することが出来ない城址だったので、本当にうれしかったですね。
ここで、そのときに訪問した二俣城以外の城址を簡単に紹介します。
①小山(こやま)城
遠州進出を図った武田信玄は、元亀2年(1571)に重要拠点の小山の砦を修築して小山城と名付けました。
この城は、武田氏滅亡で廃城となっています。
武田氏独特の築城で造られる三日月掘と三重の堀が遺構として残っています。
現在「展望台小山城」という名前の、犬山城を模した模擬天守が建造されていますよ。
三重四階望楼型複合式で、最上階に廻縁がつけられた、古風な姿の天守です。
参考:静岡県吉田町ホームページ
②高天神(たかてんじん)城(続日本100名城)
標高132mの鶴翁(かくおう)山に築かれた山城です。
今川氏の支城でしたが、永禄12年(1569)に徳川家康が手に入れ、武田信玄が2万の軍勢で攻城するも攻めきれず兵を引き返しています。
天正2年(1574)、信玄の息子勝頼が改めて攻城し、ついに開城、武田方の城となりました。
武田氏の遠江最大の拠点の城でした。
長篠の戦い後の天正9年、家康は再び高天神城を攻城し、落城させて廃城。
高天神城は、断崖絶壁の地形を利用しながら、四方に伸びる尾根の上に、いくつもの曲輪を配した複雑な縄張りと竪堀・横堀などで防御力を高めた難攻不落の城です。
土塁、堀切などが遺構として残っています。
③横須賀(よこすか)城(国の指定史跡)
天正6年(1578)に、徳川家康が家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて、高天神城攻略のために築いた城です。
天正9年高天神城が落城すると、横須賀城が遠州南部の拠点の城として位置づけられ、その後明治維新まで横須賀藩の本城として存続しました。
明治になって廃城となります。
横須賀城は、山城として築かれた中世の城郭部分と二の丸などの平城部分をもつ近世城郭の二つの特徴をもつ城でした。
大手門は通常一つしかないものですが、横須賀城には大手門が東西にあり「両頭の城」といわれています。
また「玉石積み」といわれる丸い河原石を用いた特徴的な石垣でも有名です。
現在国の指定文化財として整備が進められています。
*二俣城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:年中無休
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第1版第1刷発行)、『戦国の堅城』(学習研究社 2004年9月1日 第1刷発行)、『日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、浜松市ホームペ―ジ他
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