第138回は、久しぶりに沖縄県の城(グスク)の紹介です。
浦添市にある浦添(うらそえ)グスク(城)は、琉球(沖縄)が統一されるまで琉球の中心のグスク(城)でした。
しかし、第二次世界大戦の沖縄戦で、浦添グスクは徹底的に破壊されてしまいます。
グスク址にはわずかな石垣などしか残っていないためか、「日本100名城」や「続日本100名城」には選定されていません。
もちろん、首里城や勝連グスクのように世界遺産にも指定されてはいません。
よほどの沖縄のグスク好きの人ではないかぎり、訪れることはない城址です。
しかし、琉球の歴史においては大変重要な位置にあるグスクのためでしょうか、国指定の史跡には選定されています。
筆者が浦添グスクに初めて登城したのは2000年9月15日で、その後も後半で紹介する「浦添ようどれ」が復元された時などにも攻城しました。
合計3、4回は行っていますね。
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浦添グスクは、1429年(室町時代初め頃)に尚巴志(しょうはし)王(第一尚氏王統第2代)が琉球を統一する前、三山鼎立時代の中山王(ちゅうざんおう)の居城です。
三山鼎立時代とは、以下3人の王が沖縄を三分して支配していた時代(14世紀中頃から15世紀初期頃)のことです。
- 今帰仁(なきじん)グスクを居城として、沖縄北部(国頭 くにがみ)を支配していた北山王(ほくざんおう)
- 沖縄南部(島尻 しまじり)を支配し、島尻大里(山南)グスクを居城としていた南山王(なんざんおう)
- 中山王
浦添の中山王の領地は、北は宜野湾、南は泊・那覇までを含む広範囲でした。まさに沖縄の中心部を支配していたといえると思います。
画像出典:浦添市公式ホームページ「浦添城跡散策マップ」うらそえプラス
伝説によると浦添グスクは、1187年に即位した舜天(しゅんてん)王統、次の英祖(えいそ)王統、察度(さっと)王統と続いた、浦添王統の居城だったといわれています。
正確な築城年代は不明ですが、おおそよ13世紀頃の英祖王統の頃には築城されたようです。
浦添グスクは浦添市の中央部の丘陵の上に築かれ、城郭は東西に細長く造られています。
見晴らしのきく場所に立つと、眼下に貿易港として栄えた牧港を、北は沖縄本島中部の中頭(なかがみ)一円を望み、北部の山並みも遠望できます。
また、南は首里城も見ることが出来きる絶好の場所です。
察度は1349年に浦添按司(あじ※)となり、1372年には中国の明国皇帝の招きに応じて弟の泰期(たいき)を派遣して、朝貢貿易を始めます。
琉球は、中国の冊封(さくほう)体制下に入り、1383年には察度は「琉球国中山王」として、明の洪武帝から国王印(鍍金銀印)を授けられています。
これにより浦添の牧港を中心に「進貢貿易」を大々的に行って、琉球の繁栄の基礎をつくったのですね。
さらに、1393年には瓦葺の正殿を建造したことが発掘調査で分かっています。
そのころにグスクを拡充・修築し、浦添グスクは大型グスクになったようです。
また、浦添グスク址からは、高麗系瓦や青磁・白磁などの中国製陶磁器破片などが大量に発見されています。
このことから13、4世紀には中国・朝鮮との交易により最も繫栄していたことがわかります。
浦添グスクは堀や石積み城壁などで囲まれた連郭式の大規模な城郭でした。
周辺に王陵や、琉球時代の初めての仏教寺院、豪族屋敷、集落などがあり、後の王都・首里の原型が出来上がっていたと考えられています。
15世紀初めごろ佐敷(さしき)の尚巴志が浦添グスクを攻略し、中山王を滅ぼします。
尚巴志は、1416年に北山を、1429年に南山を攻め滅ぼして初の琉球の統一王朝を樹立します。
この王朝を第一尚氏王朝と呼びます。
こうして浦添グスクは廃城となりました。
※按司(あじ)とは、琉球地方の各地で領国支配をしていた豪族や首長などのこと。
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1524年、第二尚氏王朝の第3代目国王尚真王の長男・尚維衡(しょういこう)は首里から追い出され、浦添グスクを居城(浦添家となる)としました。
しかし、1609年にあった薩摩島津軍の琉球侵略により、浦添グスクは焼き払われてしまいます。
太平洋戦争の沖縄戦では、浦添グスク一帯は最激戦地となり、地形が変わるほどの被害を受けました。
これは首里城と同じく、浦添グスク地下に日本軍の陣地があったからです。
浦添市の教育委員会は、1982年からグスク址の発掘調査をおこないました。
石組み城壁や物見状郭が発見され、1996年に行われた南側斜面の試掘調査では、城壁の外側に14世紀の柵列とそれに伴う堀を発見しました。
柵列と堀がセットになって発見されたのは、沖縄では浦添グスクの遺構が初めてで、画期的な発見といわれています。
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現在、浦添グスク址の大部分は浦添大公園として整備されています。
北側の崖下には、後述するように英祖王統と尚寧の墓である「浦添ようどれ」があります。
沖縄学の父といわれる伊波普猷(いは ふゆう 1876~1947)の墓が浦添グスクの入口近くにあります。
伊波普猷は、沖縄の古典『おもろそうし』の研究で有名な学者です。
言語学、歴史学、民俗学などで沖縄の総合研究を始め、「沖縄学の父」といわれている方ですね。
論文「浦添考」(明治38年)で、伊波は浦添が首里以前の琉球国中山の中心地であったことを明らかにしました。
浦添家出身の琉球王朝第二尚氏王統第7代尚寧王が、1597年に浦添グスクから首里への道を整備した時の竣工記念碑です。
「浦添ようどれ」は、琉球王国初期の王陵(おうりょう:王の墓)で、1265年から1274年の間に英祖王(在位1260~1299)が築いたといわれています。
1620年には尚寧王(1589~1620)が改修しました。
浦添グスクの北側崖下の岩壁に横穴を掘って墓室とし、中には遺骨が入れられた石厨子が置かれています。
「ようどれ」とは、琉球語で「夕凪(ゆうなぎ)」を意味し、無風の天地静まり返った時空間、あるいは世の中が静謐に鎮まり治まるなどの意味があるようです。
東室が尚寧王陵、西室は英祖王陵です。
▼公式サイト
*浦添グスク詳細
・アクセス:沖縄自動車道 : 西原ICから車(一般道)で約10分
・営業時間:24時間
・休業日:無休
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【参考文献】
文・岡田輝雄 写真・国吉和夫『世界遺産 グスク紀行 ―古琉球の光と影―』(琉球新報社 2003年5月20日発行)、名嘉正八郎『グスク探訪ガイド』(ボーダーインク 2010年㋆31日第5刷発行)、安里進『日本史リブレット42 琉球の王権とグスク』(山川出版社 2006年12月20日1版1刷発行)、赤嶺守『講談社選書メチエ297 琉球王国』(講談社 2011年8月16日第4刷発行)、安里進他著『沖縄県の歴史』(山川出版社 2004年8月5日 第1版第1刷発行)、「浦添城跡」及び「浦添ようどれ」パンフレット(浦添市教育委員会文化課)他