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沖縄県の首里城は、正殿を始め主要な建物が、2019年10月一夜のうちに焼失してしまいました。
衝撃的なニュース…本当に残念でした。
そのためここでは、ありし姿を思い浮かべながら書いています。
再建される日を楽しみに待ちましょう。
2006年には「日本100名城」(第100番)に登録されました。
連郭式縄張りの平山城で、別称は中山城(ちゅうざんグスク)、王城(おうグスク)です。
沖縄の世界文化遺産は9ケ所の遺産で構成されていますが、そのうち首里城を含む5ケ所がグスク〈城〉址です。
・中グスク(第2回)
・座喜味グスク(第52回)
・勝連グスク(第11回)
・今帰仁グスク(第29回) ( )はこのブログの掲載回
本土の城と違って、沖縄地方では「城」をグスクといいます。
さて、それでは歴史から見ていきましょう。
築城は14世紀頃とみられていますが、定かではありません。
当時琉球本島は今帰仁グスクを本拠とする北山(ほくざん)、浦添(うらそえ)グスクの中山(ちゅうざん)、島尻大里グスクの南山(なんざん)の三つの勢力に分かれて覇を競っていました。
しかし1429年、中山王を名のっていた尚巴志(しょうはし)がこれを統一。
のちに第一尚氏と呼ばれますが、わずか40年ほどで滅ぼされ、1470年に2代目国王を名乗った尚円(しょうえん)が第2尚氏の祖となります。
次の尚真(しょうしん)は50年に及ぶ在位の間に、首里城の正門である歓会(かんかい)門や久慶(きゅうけい)門、王家の墓である玉陵(ぎょくりょう)(世界文化遺産)など城内外の整備・拡張をしていきます。
また、尚真は周辺の島々を傘下に収め、身分制度や集権体制を確立するなど、琉球王国の基礎を固めていき、那覇郊外の浦添に置かれていた王府を首里城に移しました。
しかし、慶長14年(1609)に独立王国として中国の明や薩摩の島津家と交易をおこなっていた琉球王国に、島津家久(いえひさ)が突然攻撃を行って首里城は陥落。
島津氏の支配のもと幕藩体制に組み込まれてしまいます。
琉球王朝はそれまで中国明から琉球王に冊封されていましたが、薩摩藩の支配下のもと表向きは尚王朝が存続し、中国の冊封を続けるという二重構造の苦しさを味わうことになります。
これは薩摩藩が、琉球王朝を傀儡にして明との貿易の利益を得るための施策でした。
以後、首里城は明治12年(1879)年の沖縄県誕生、一般には明治政府の琉球処分と言われる日本への統合までの450年間琉球王国の王城として君臨します。
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私が初めて首里城に行ったのは、1978年3月新婚旅行の時でした。
当時はもちろん首里城が再建される前で、守礼の門だけがありました。
それでも土産物屋さんや記念撮影する人たちで賑わっていましたね。
首里城中心部が再建された後の登城は、1996年9月9日です。
私は沖縄が大好きなので、何かにつけて訪れ、それから十数回は行っていると思います。
首里城は、最も高い所では標高136mもある那覇市郊外の丘陵地にあります。
丘陵地の東側には御内原(おうちばら)がありました。
御内原は、国王とその親族、そこに仕える多くの女性が暮らす男子禁制の建物です。
そして正殿や南殿・番所や北殿、書院など御庭(うなー)と呼ばれる広場を中心にした、本土の城の「本丸」に相当するエリア、西側には沖縄の城(グスク)には必ず存在する信仰の場・京(きょう)の内があり、西の端は西のアザナと呼ばれる場所があります。
さらにその外に6~15mのみごとな高石垣で外郭を作っています。
沖縄の城には天守や三階櫓のような建物はなく、正殿が天守建築に当たるものです。
堀はありません。
城壁は、緩やかな曲線を描き隅部も丸みを持って築かれた高石垣。
また、必ず城郭内に御嶽という礼拝所があることが特徴です。
奉神門から御庭に入ると、正面に「百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)」とも呼ばれる二重三階の正殿、右に二重二階の南殿と番所、左に北殿があります。
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南殿が何となく和風な感じがするのは薩摩の役員を接遇するため。
そして北殿は政務の場所でもあり、中国の冊封(中国皇帝の使節)を迎えるための場所でもありました。
正殿は平成4年(1992)に南殿、北殿とともに再建された沖縄最大の木造建築です。
正殿を二重三階建てとすることや正面の八の字型の階段や龍柱は、日本のみならず中国や朝鮮半島にも類例がなく、琉球独自の形式と言われています。
そして正殿を二重屋根とするのは、北京故宮の太和殿やソウルの景福宮・勤政殿と同じで、言わば中国式宮殿の最も格式の高い形式だそうです。
火焔宝珠と金龍、瑞雲の彫刻がついた唐破風妻飾りは、日本の寺社建築様式ですね。
従って正殿は、中国、日本、琉球の三つの様式を取り入れた建物であると言えます。
入口の両側には大龍柱(左は吽形、右は阿形)があり、国王の象徴である龍の飾りを多用した朱塗りの柱、赤い本瓦葺屋根など、中国の意匠をふんだんに取り入れた極彩色の建物は、琉球王朝の宮殿に相応しいものです。
正殿には33対の龍がありますが、中国から冊封を受けているために指(爪)を遠慮して四本にしているようです。
また正殿には国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われた御差床(うさすか)と呼ばれるところがあります。
二階の御差床は特に豪華で、寺院の須弥壇に似た台が据えられ、天井も高く格式を備えたものです。
正面には御庭に面した小部屋があり、正月の儀式の時などは、国王が椅子に坐り、御庭に並ぶ諸官の謁見を受けます。
御差床 玉座 by:photo-ac
しかし、首里城は、北山神社と呼ばされた今帰仁グスクと同じように、戦前は「沖縄神社」にされ正殿が社殿として使われました。
沖縄の文化を無視し、日本の文化を押し付けようと必死だったわけです。
戦時中には世界中で当たり前のように行われたことですが、酷いことですよ。
正殿の前にはなんと賽銭箱も置かれていたそうです。
大きく湾曲した城壁の、中央のアーチ形の拱門の上に櫓が載っていますね。
これは昭和49年(1974)に再建された首里城の正門・歓会(かんかい)門です。
入口の両側で石獅子(シーサー)が、魔物が入城しないように守っています。シーサー、いかつい顔してても可愛い…。
お庭は、冊封式典や様々な儀式が行われたメイン広場として使われています。
磚(せん 敷き瓦のこと)というタイル状のものが敷かれ、この縞模様の敷石は、儀式の時に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっています。
奉神門と正殿をつなぐ道は浮道と呼ばれ、神聖な道として位置づけられていますよ。
下の写真は城内にある礼拝所の一つで、首里森御嶽(すいむぃうたき)と呼ばれる神聖な場所。
広福門を入った正面、下之御庭(しちゃぬうなー)の南側にあります。
現在も市民の方々が熱心に礼拝に来ています。
琉球最古の歌謡集「おもろそうし」に数多く詠まれた場所で、「琉球開闢神話」によると「神が作られた聖地である」とのことです。
この前にお供え物をして熱心に祈りを捧げている人をみると、この場所がまぎれもない神聖な場所だと気がつくでしょう。
こちらが首里城内最大の祭祀空間「京の内」。
神聖な御嶽が数多くあり、琉球王国最高位神女「聞得大君(きこえおおきみ)」などの神女により王家繁栄、航海安全、五穀豊穣が祈られた神聖な場所です。
そして、切込接(きりこみはぎ)布積の高石垣で、隅部も曲線、全体も緩やかな曲線を描く沖縄グスクの特徴的な石垣です。一体どうやって硬い石を曲線に組むんでしょうかね…。
隅部の突端部を、上方に緩やかに突出させています。
本土の石垣には決して見ることの出来ない意匠です。
美しいですね。
下の写真は鎖之間。
知人や友人を首里城に案内した時は、私は必ずここに来ました。
この鎖之間は、諸役の者たちを招き懇談する施設だと言われています。
ここで、さんぴん茶と琉球菓子のセット(次の写真参照)をいただき、場内で唯一の本格的な庭園の景色をゆっくり楽しみます。
私は首里城を見学した後、5分ほど北のところにある「琉球茶房 あしびうなぁ」で昼食をとるのを楽しみにしていました。
琉球王朝に仕えていた三司官が暮らしていた美里御殿跡に、築60年を超えた風情ある琉球古民家を移築して作った店です。
沖縄民家の特徴の雨端(あまはし)と呼ばれる広い縁側で、庭を見ながら沖縄料理の数々を楽しみました。
※こちらのお店は残念ながら、2020年10月31日に閉店しています。
午後になって首里城見学した時は、首里城すぐ近くの有名な金城町の琉球石灰岩が敷き詰められた石畳道(16世紀の主要道路)を少し降りたところにあるカフェ「石畳茶屋真珠(まだま)」で、眼下に広がる景色を肴にオリオンビールを飲むひと時が好きでした。オリオンビール美味しいよねっ!
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首里城は、築城後何度も焼失しましたが、その都度再建されています。
第二次世界大戦では徹底的にアメリカ軍に攻撃され廃墟となりました。
それは、首里城の地下に日本軍(第32軍)司令部壕があったからでしょう。
アメリカ軍はそれを知っていて、首里城を集中的かつ徹底的に砲撃し破壊しました。
戦後の昭和25年(1950)に城跡に琉球大学が創設され、昭和47年(1872)に沖縄は日本に復帰します。
昭和57年(1982)に琉球大学が西原町の新キャンパスへ移転、平成元年(1989)から沖縄復帰記念事業として正殿他の建物が順次復元されてきました。
約30年近く掛けて首里城のさまざまな建物の復元が終わり、ほぼ完全に復元された首里城。
しかし令和元年(2019)10月31日未明火災が発生、わずか一夜のうちに正殿・北殿・南殿が全焼、他合わせて7棟の建屋が焼失してしまいました。
まことに痛恨の極みです。
首里城の焼失はこれで歴史上5度目となりました。
しかしこれまでと同じように、そう遠くない日にかつての優美な姿を、再び私たちの前に見せてくれることと思います。
ちなみに、首里城の世界遺産登録は復元された首里城そのものではありません。
あくまでも石垣などの「首里城址」ですので、今回の正殿などの焼失によっても登録の取り消しはありません。
※今回、首里城のアクセスなどは省きます
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【参考文献】
文・岡田輝雄 写真・国吉和夫『世界遺産 グスク紀行 ―古琉球の光と影―』(琉球新報社 2003年5月20日発行)、「首里城物語」(㈶財海洋博覧会記念公園管理財団)、平井 聖監修『8 九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、首里城公園パンフレット他
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