日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

かるーいお城の雑学(その9)世界遺産の城・城跡

日本全国にあるお城。

見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」その9です!

今回は、世界遺産の城、城跡について書いていきますね。


日本で世界遺産(文化・自然)に登録されているのは、現在25件です。

最初の世界遺産登録は、奈良県の「法隆寺地域の仏教建築物」。

こちらが平成5年(1993)に世界遺産日本第1号でした。

そして令和3年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」が25番目の世界遺産に登録されました。

では、世界遺産に登録されている城郭関係のものがいくつあるかご存じでしょうか?

世界遺産でお城と聞けば、真っ先に浮かぶのが国宝・姫路城ですね。

なんと日本の世界遺産では第2番目に選ばれていますよ。

姫路城は、連立式天守をはじめ櫓門や櫓など姫路城全体が登録されています。

姫路城    by:photo-ac

そしてお次は国宝の二条城です。

天守寛延3年(1750)に落雷により焼失。

そのため、二条城には現在天守が存在していません。

本丸御殿も京都市内の火災による類焼で失われています。

国宝指定が二の丸御殿のため、「国宝の城」には残念ながら含まれていません。

他の国宝に指定されている城は、天守建築だけが国宝に指定されているからですね。

二条城では、二の丸御殿や櫓門、二の丸庭園などを含んだ全体としての二条城が世界遺産に登録されています。

二条城二の丸御殿    by:photo-ac

では、日本で他に世界遺産に登録されている城郭はどこかご存じでしょうか?

なんと6つもあります!

そのうちの5つはすべて、沖縄県にある城(グスク)址です。すごいぞ沖縄!

もう一つは平成30年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録された長崎県原城跡です。

 

世界遺産―沖縄の5つの城(グスク)跡

世界遺産登録にさいしての文化庁の説明文を引用します。

琉球列島は日本列島南端に位置します。14世紀中頃には三王国が分立していましたが、15世紀前半にこれらを統一して琉球王国が成立しました。中国・朝鮮・日本・東南アジア諸国との広域の貿易を経済的な基盤とし、当時の日本の文化とは異なった国際色豊かな独特な文化が形成されました。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。

今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたものです。これらの城壁は、主として珊瑚石灰岩により造営されており、局面を多用した琉球独自の特色を備えています。

 

沖縄県の城(グスク)跡は、失われてしまった琉球時代の象徴的な遺構として大変貴重であり、今もなお先祖への崇拝と祈願を通じて地域住民の精神的な拠り所になっていることが評価されました。

2000年に、日本では11番目の、城郭としては2番目の世界文化遺産です。

沖縄の城(グスク)跡には必ず御嶽や拝所があり、早朝などに登城しますと祈りを捧げている方にお会いしますよ。

 

それでは沖縄県世界遺産に登録されている城跡を北から順に紹介していきましょう。

 

今帰仁城(なきじんじょうあと)

今帰仁城跡高石垣   by:photo-ac

主郭にある火の神の祠    by:photo-ac

野面積みで乱積みの、沖縄でも屈指の高石垣が迫ってきます。

沖縄で最も古い築城で「大曲」といわれる長大な石垣で有名なのが、この今帰仁城日本100名城です。

1300年頃に築かれたと伝わっています。

驚きですよね。

沖縄のグスクの石垣は、織田信長安土城で高石垣を築いた1576年に先立つこと約250年も前のことですよ。わお!

今帰仁城は三国鼎立期に北山王の居城で北山城とも呼ばれていました。

近年積み直されたものもありますが、万里の長城のように1.5kmにも達する壮大な石垣は圧巻です。

主郭の一番奥まったところに「今帰仁城火の神」が祀られています。

現在も陰暦の8月10日に今帰仁ノロ、中城ノロ以下10数名の神人(かみんちゅう)達によってウイミの祭礼が執り行われています。

私は1996年9月8日に初登城、その後4,5回は攻城しています。

平郎門跡から続く道の両側に咲く寒緋桜   by:photo-ac

 

②座喜味城跡(ざきみじょうあと)

二の郭入口のアーチ門    by:photo-ac

一の郭入口のアーチ門と高石垣   by:photo-ac

座喜味城跡は15世紀の初頭、琉球一の名築城家として名高い読谷山按司※(よみたんあじ護佐丸(ごさまる)によって築かれました。

護佐丸は、座喜味の北東約4kmのところにある山田グスクに居城していました。

1416年琉球統一を目指していた中山王尚巴志(しょうはし)は今帰仁城を攻略、護佐丸はその家臣として参戦します。

今帰仁城での戦いに勝ったあと、読谷に座喜味城(続日本100名城を築城。

読谷は海外貿易の拠点として栄えていた長浜という港が麓にある場所です。

1422年に座喜味城に入城した護佐丸ですが、1440年に中山王の命令で中城城を築城し入城します。

これは、勝連城にいた阿麻和利(あまわり)の勢力が強くなったため、それを牽制する目的でした。

座喜味城はわずかに二つの郭だけの小さな城ですが、下のパンフレットの上空写真でも分かるように、城壁は美しい曲線を描いています。

これは単に地形に沿って石垣を築いているだけではありません。

本土の城でいう横矢が掛けられるようになっています。

アーチ状の石門(沖縄最古の拱門)を正面からだけでなく、両側の石垣上から侵入してくる敵を迎え撃てるようになっているのですね。

他の石垣でも同じです。

本当に良く考えられて築かれた石垣の形ですよね。

私は座喜味城へ、1996年6月29日に初登城、その後5,6回は攻城しています。

按司とは、琉球地方の各地で領国支配をしていた豪族や首長などのこと。

座喜味城パンフレット

 

③勝連城跡(かつれんじょうあと)

勝連城跡   by:photo-ac

玉ノミウヂ御嶽      by:photo-ac

勝連半島平安座島を結ぶ海中道路へ向かう途中、車窓から右側の小高い山の上に大きな石垣が見えてきます。

それが勝連城跡の石垣です。

勝連城(続日本100名城は、標高約90mの琉球石灰岩の台地の上に築かれており、5つの郭から構成されています。

12世紀頃の築城と推測され、沖縄の大型グスクの中では最古のグスクです。

首里城、中グスクに向かって凛として聳えている姿は、勝連最後の按司阿麻和利の統治への自信と威風が偲ばれます。

しかし、1458年に首里王府によって滅ぼされてしまいました。

最高地の一の曲輪にある玉ノミウヂ御嶽は、勝連按司の守り神を祀った拝所です。

大きな岩は勝連を守る霊石ですね。

私は1996年6月29日に初登城、その後5、6回攻城しました。

勝連城推定図(「勝連城跡パンフレット」より)

 

④中城城跡(なかぐすくじょうあと)

三の郭の城壁 中央部が窪んだ美しい高石垣  by:photo-ac

中城城日本100名城は、琉球時代に貿易が行われていた屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵に築城されています。

私が沖縄で初めて登城した城跡が、ここ、中城城跡でした。

1995年8月6日のことです。

当時も今も駐車場から城跡へ上るのは、大手道からでなくいわば裏道からです。

登りきると大きな広場(かつては遊園地があったようです)の正面に、上の写真のように美しい三の曲輪の城壁が見えます。

中央部が窪んだ美しい曲線を描いた高石垣には、本当に驚きました。

これ以後、私は沖縄の城(グスク)址に興味を持ち、この中城城だけでなく何度沖縄の城跡巡りをしたかしれません。

県別攻城数では、沖縄県が断トツの1位で、52城跡を探訪しています。

入城券

中城城は、丘陵の東側が急峻な崖となっている天然の要害です。

300以上あるといわれる沖縄の城(グスク)跡の中でも、石垣の遺構が最も良い状態で残っていることでも有名ですよ。

中城城は6つの郭で構成された連郭式の山城で、城壁は、主に琉球石灰岩の切石で切込接ぎ(相方積み)の積み方で積まれています。

自然の岩石と地理的条件を活かした美しい曲線を描いていますよね。

その築城技術の高さは芸術的ともいわれ、歴史的に高い評価を受けています。

幕末の1853年、日本に開国を迫るために来たアメリカのペリー提督は沖縄に寄り、中城城を訪れ現地調査を行いました。

提督はその築城技術の高さに驚き、『日本遠征記』に「その石造建築は賞賛すべきものであった。」と書いているとのことです。

中城城は、14世紀後半頃までに先中城按司(さちなかぐすくあじ)が、何年にもわたって、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築きます。

1440年中山王の命令で読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸によって北の郭と三の郭が増築・修理され、現在みられる中城城が完成したようです。

二の郭から見た一の郭の城壁と拱門    by:photo-ac

石垣の上から兵士が外敵を攻撃できるように通路があります。

本土の城のような狭間をもった塀は石垣上には設置されていなかったのでしょうか?

しかし、敵からの攻撃から身を守るには充分な高さですね。

南の郭にある拝所   by:photo-ac

右端にある南の郭には聖地久高島(くだかじま)への遥拝所をはじめ、雨乞いの御嶽などたくさんの拝所があり、今も拝みにくる人が絶えません。

 

首里城(しゅりじょうあと)

首里城 歓会門付近の石垣   by:photo-ac

永享元年(1429)に、三山時代琉球の統一を果たした尚巴志(しょうはし)が整備し、尚真王琉球王朝にふさわしい城として修築・拡大しています。

首里城日本100名城の石垣は、日本の城の石垣で、私が個人的に一番美しいと思う石垣です。

きれいに加工された切込接ぎの布積みと言われる石垣で、横方向の目地がほぼ真っ直ぐ通っています。

美しいですよね。

隅部や側面も緩やかな曲線を描くのが沖縄の城(グスク)の特徴です。

それと、首里城の石垣は隅部の上部先端が角のように上方に緩やかに突出しているのがユニークです。

城壁飾りの一種だそうです。

首里城広福門を入ると下之御庭の正面、奉神門の前に拝所「首里森御嶽(すいむいうたき)」があります。

琉球開闢神話によると、この御嶽は神が造られた聖地であるとのこと。

早朝に登城すると、ここでお祈りを捧げておられる方に出会うことがあります。

左に歓会門、中央に久慶門、右側の茶色の建物は県立芸術大学 by:photo-ac

令和元年(2019)10月31日未明の火災で、わずか一夜のうちに正殿・北殿・南殿が全焼、他合わせて7棟の建屋が焼失してしまいました。

首里城全体の復元が完成される直前のことでした。

首里城5度目の焼失です。

しかし、世界遺産の登録は石垣や正殿の基壇、城内の御嶽などが対象ですので、世界遺産の登録取り消しにはなりません。

ふたたび正殿(2026年復元完成予定)などが、これまでのように蘇る日も近いでしょう。

今からとても楽しみにしています。

 

*その他の世界遺産の構成場所

沖縄の世界遺産は、ここで紹介した5つの城(グスク)跡以外に、以下の場所があります。

琉球王朝の王の墳墓「玉陵(たまうどん)」

・外国の賓客の接待場所である「識名園(しきなえん)」

琉球王朝最高の聖地である「斎場御嶽(せいふぁーうたき)」

・そこに巡拝するときや国王が外出するときの安全祈願をする「園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)」

グスクと合わせて9つの場所が、一括して世界遺産に登録されています。

斎場御嶽識名園以外は首里城のすぐ近くにありますので、是非訪れて欲しいところです。

園比屋武御嶽石門     by:photo-ac

玉陵    by:photo-ac

識名園     by:photo-ac

斎場御嶽  奥が聖地久高島への遥拝所     by:photo-ac


出典:沖縄県ホームページ「沖縄の世界遺産」

 

原城(はらじょうあと)

      原城本丸跡に建てられている天草四郎像  by:photo-ac

              原城跡   by:photo-ac

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、世界遺産登録に際しての文化庁の解説を引用します。

本資産は、禁教時代の長崎と天草地方において、既存の社会・宗教とも共生しつつ信仰を密かに継続した『潜伏キリシタン』の伝統を物語る物証です。

潜伏キリシタンの文化的伝統が形成される契機となる出来事が考古学的に明らかにされている原城跡、(後略)

 

原城は、寛永14年(1637)に勃発した島原・天草の乱で、天草四郎率いる一揆軍が立て籠もり、幕府軍と三ヵ月にわたる壮絶な戦いのあと全滅した城です。

明応5年(1496)に有馬貴純(たかずみ)が築いた平山城で、キリシタン大名有馬氏の居城・日野江城の支城でした。

有明海に突き出た標高31mの高台にあり、断崖を背にした要害の上に築かれた「後堅固の城」の城です。

沖合をとおる船から、その美しさに人々が見とれたことから日暮城とも呼ばれていました。

本丸に建てられている天草四郎像は、長崎の平和記念像などを手掛けた北村西望(せいぼう)氏(南島原市出身)の製作。

原城は、「日本100名城」に選定され、国の史跡にも指定されています。

 

*こちらもどうぞ かるーいお城の雑学シリーズ

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【参考文献】

日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、城間勇吉著『世界遺産グスク 石垣の魅力と謎・序説』(新星出版 平成17年10月1日 初版発行)、各城跡パンフレット他

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