箕輪(みのわ)城は、武田信玄の攻撃を何度も防いだことで有名な堅城です。
丘陵の上に多数の曲輪や大きな堀切があり、関東屈指の規模を誇る平山城として中世の趣が残っています。
北条氏滅亡後は井伊直政(なおまさ)の居城でしたが、直政が高崎城を築城すると廃城になりました。
「日本100名城」(第16番)に選定され、国の指定史跡でもあります。
私は、2007年9月27日に登城しました。
***********************************
諸説ありますが、箕輪城は戦国時代初期の1500年前後、長野業尚(ひさなり)によって築かれたようです。
その後、4代にわたって長野氏の居城でした。
この地は、相模の北条氏や甲斐の武田氏、越後の上杉氏が侵攻を繰り返す戦いの場でした。
武田信玄のたびたびの攻城に対して抵抗を試み、なかなか落城しませんでしたが、永禄9年(1566)、ついに信玄に落とされてしまいます。
武田氏は、西上野(にしこうずけ)を治める拠点の城として、箕輪城に有力家臣を城代として置きます。
しかし、天正10年(1582)3月の天目山の戦いで武田勝頼(かつより)は織田信長に敗れ、武田氏は滅亡。
その後同年の6月、織田信長が本能寺の変で倒れると、今度は北条氏が箕輪城を取り、北条氏の城となりました。
豊臣秀吉の小田原城攻略のあとは、関東へ封ぜられた徳川家康から井伊直政が箕輪城を与えられました。
そのとき直政は、家臣のなかでは最高の12万石で封じられています。
直政は、箕輪城を近世城郭へと大改修しました。
8年後の慶長3年(1598)になると、直政は新たに高崎に城を築き、居城を高崎城とします。
箕輪城は廃城となりました。
▼関連記事
***********************************
箕輪城は、榛名山東南麓にある河岸段丘の上を中心にして、平地部を含んだ広大な城域をもつ戦国時代の城郭です。
南側に沼(湿地帯)、西に榛名白川の断崖があるため天然の要害になっています。
北西から南東方面に伸びる尾根上に主要な曲輪を直線的に置いた、梯郭式の縄張りです。
本丸の周囲を巡る堀は、最大幅が40m、深さは10mもある広大な堀でした。
また、多数の曲輪にも深くて広い堀が巡らされている堅固な防御力をもった城郭です。
城域の形が「箕(みの)」に似ているので、箕輪城と名付けられたそうです。
高崎市は、平成10年度(1998)から史跡整備のために発掘調査を始めました。
その結果、井伊直政の時代の門跡や、石垣、土塁、掘立柱建物跡などが発見されました。
箕輪城の城域を南北に大きく分断しているのが大堀切です。
最大幅はなんと30m。
堀の深さは試掘の結果、現在の堀底よりも6m以上深く、20m以上もあったと考えられています。
また珍しいのは、堀底で堀に直交した石垣が発見されたことです。
砂防ダムのような働きをしていたのではないかと言われています。
箕輪城の特徴は、なんといっても堀の規模の大きさです。
そして虎口の周囲がよく残っていました。
高崎市は、箕輪城のそうした特徴を活かした史跡の整備を進めているようです。
平成28年(2016)には発掘調査の結果に基づいて、二の丸の南側に郭馬出西虎口門が木造造りで復元されました。
この櫓門は、12万石城主となった井伊直政時代のもので、箕輪城のなかでも最大規模の城門であったと推定されています。
本丸の北側にある説明板に「御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった」と書かれています。
それによると、御前曲輪の西南隅に物見・戦闘指揮のための櫓があったらしいですね。
天守は建造されてないようです。
御前曲輪は、永禄9年の武田軍の攻撃で落城したとき、城主長野業盛たちが最後を遂げた場所であり、長野氏や城兵たちの慰霊碑と復元された井戸があります。
この井戸は深さが20mもあり、底の土の中から長野氏代々の当主墓碑が出土したとのことです。
城主が死ぬ前に井戸に放り込んだのでしょうか。
箕輪城址には大きな土塁や空堀のほかに、井伊直政時代に改修されたと思われる野面積みの石垣や、発掘調査で明らかになった城門の石垣などが遺構として残っています。
YouTubeの「歴史人」公式アカウントさまのCG動画は、規模がとてもわかりやすかったのでお借りします!
見てみてくださーい。
*箕輪城詳細
・アクセス:JR信越本線/上越新幹線・高崎駅下車 高崎駅から群馬バス「伊香保温泉行き」で約30分「城山入口」下車、徒歩約5分
・営業時間:24時間
・休業日:なし
▼PR
【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、高崎市ホームページ「箕輪城跡」他
▼PR