日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ㉚烏帽子形城へ行ってきた

烏帽子形城跡碑

「気ままにぶらっと城跡へ」の第30回目は、大阪府河内長野市の烏帽子形(えぼしがた)城の紹介です。

10月18日(2024年)に再訪してきました。

烏帽子形城は、南北朝時代千早城の戦いで有名な楠木正成(くすのき まさしげ)が築城した楠木七城のひとつです。

標高182mの烏帽子形山の頂上に南北朝時代から戦国時代に築かれた山城で、国の指定史跡となっています。

上赤坂城の支城とも伝えられていますが、そこは定かではありません。

文献に名前が現れるのは、室町時代から安土桃山時代だそうです。

現在の河内長野駅から高野街道を南に向かって歩き、通称「別久坂(べっくさか)」、「ビック坂」と呼ばれる急な坂をのぼり、烏帽子形山の東側山麓を進んでいきます。

烏帽子形城へは、2009年6月3日に初攻城しています。

城跡に立てられている烏帽子形城跡説明板

烏帽子形城は、高野街道の交通の要衝であった南河内南部にあります。

応仁の乱以後、さまざまな戦いの場となりました。

戦国時代の河内長野市域は河内国の一部で、守護の畠山氏の後継者争いをはじめ、織田信長の機内平定や、羽柴秀吉の和歌山根来衆攻めの後詰めの城としても使われ、その都度整備されたようです。

烏帽子形城は紀伊国の国境近くにあり、河内国の政治の中心であった若江城東大阪市)や高屋城(羽曳野市)などを守る南側の防衛のための、要の城だったいえます。

私が2009年に初めて攻城したときと違って城跡はかなり整備され、説明板も随所に設置されていました。

おそらく、2012年1月に国の史跡に指定されて発掘調査が行われた結果、横堀や土塁の様子がわかり、整備されたのだと思います。

土塁や堀なども保存状態がよく、山城としての特徴が良く残っている山城好きには逃せない城跡です。

烏帽子形城跡の説明板より

烏帽子形城は、以下の要素を持ちます。

  • 高野街道山麓に取り込んでいる
  • 烏帽子形山山頂に築かれている
  • 城の北側と西側は断崖
  • 東側は石川の支流天見川
  • 西側は石川
  • 東側と西側が北側で合流し、天然の外濠の役目を果たす


山頂部には、通常は本丸と呼ばれるような「曲輪」(上・下2段)が置かれています。

上段の「曲輪」(主郭部分)には、発掘調査で発見された二棟の建物の柱を支えていた礎石が再現されています。

建物は、長屋づくりの多聞櫓と考えられていますよ。

周辺からは14~16世紀の大量の瓦が発見されているため、これらは瓦葺きの礎石建物だったと考えられ、中世の山城では大変珍しいものだそうです。

信長の前に烏帽子形城を抑えていた三好長慶が瓦葺の建物を建てたのか、あるいは秀吉が滞陣したときに建てたのか……。

いずれにせよ、織豊系城郭の三要素のうち、石垣はないのですが、瓦の使用と礎石建物の建造が当てはまるため、中世の土塁を中心とした城郭から発展していく過渡期の城郭だったと推定されています。

ちなみに現在の縄張りは、秀吉の武将中村一氏が改修したものと考えられています。

曲輪(上に載せた地図 D 上の段)

曲輪(上に載せた地図 D 上の段)の礎石建物跡説明板

曲輪(上に載せた地図 D 上の段) 礎石建物跡の反対側

「曲輪」は急峻な崖で下は横堀

曲輪(上に載せた地図 D 下の段)Ⅼ字型の腰曲輪と言える

土塁(上に載せた地図 B)

横堀(上に載せた地図 C)

「曲輪」の周囲には横堀が巡らされています。

横堀とは、敵が斜面をよじ登って攻撃できないように横に深く掘られた堀のこと。

横堀は永い年月で土が積もり、現在は道のようになっていますが、当時は深く掘られていました。

横堀(上に載せた地図 C)

堀内障壁(ほりないしょうへき)があった横堀跡に設置されている説明板の一部(以下2枚とも)。

2段の「曲輪」の北側は、山の斜面を削って急斜面の「切岸(きりぎし)」にしています。

横堀(C) 奥が堀内障壁があった場所

二段の「曲輪」の三方を横堀が囲んでいますが、上の写真の堀の突き当りを左に曲がったところに「堀内障壁」が造られていたと説明板に書いていました。

堀は土塁の上から現在8m程の深さですが、築城当時は約10mもあったようです。

堀内を進んで行くと、左に曲がったところにいきなり壁が出現し、進めなくなります。

障壁の前で動けなくなった敵を、下の絵のように攻撃します。

もしも無理に一つ目の壁を突破しても堀底をさらに2m掘り下げた穴のような所に落ち、身動きができなくなるのです。

この横堀の突き当りは土橋で、それ以上進めなくしています。

「堀内障壁」は、現在は危険防止のため埋められていて普通の道のようになっています。

「曲輪」からの眺望

烏帽子形城の上段の「曲輪」からは、上の説明板に書かれているように河内平野を見晴らせます。

かつては高屋城(羽曳野市)や飯盛城(大東、四条畷市)などの城が一望できたようです。

条件が良ければ阿倍野ハルカスなど大阪市内の高層ビルも望めるそうですが、私が攻城した日は曇り空で、残念ながら見られませんでした。

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烏帽子形城跡からの眺望

烏帽子形城跡の中腹にある烏帽子形(八幡)神社

烏帽子山城が廃城となって以降、東側中腹にある文明12年(1480)建立と考えられている烏帽子形八幡神社の鎮守の森として、烏帽子形城跡は大切に守られてきました。

そのため城跡の保存状態がとても良好です。

烏帽子形八幡神社本殿


(写真は、筆者撮影)←写真が全体的に白く霞んでてすみません

*烏帽子形城詳細

・住所:大阪府河内長野市喜多町725-1

・アクセス:南海高野線近鉄長野線、いずれも河内長野駅下車、南西へ徒歩約16分

・営業時間:24時間

・休業日:なし

 

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【参考文献】
『関西の城あるき』(京阪神エルマガジン社 2019年10月7日初版発行)、
毎日新聞 わが町にも歴史あり―知られざる大阪―625 東高野街道113 河
長野市」(2024年10月5日発行)、「河内長野市ホームページ及び観光ポータ
ルサイト」、「日本遺産ポータルサイト 烏帽子形城跡」、烏帽子形城現地説明板、

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