日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第86回 金山城

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86回目になりました。

今回は、群馬県金山城といきましょう。

金山(かなやま)城は、関東では大変珍しい石垣と石敷道のある城址です

武田氏や上杉氏などにたびたび攻城されながらも、その度に撃退した難攻不落の堅城でした。

戦国時代の山城で、関東七名城(※)の一つ。

日本100名城」(第17番)に選定されています。

別称は、新田(にった)金山城、太田(おおた)金山城です。

私は、2007年9月26日に登城しました。

 

※:関東七名城・・・川越城、忍(おし)城、前橋城、金山城、唐沢山(からさわやま)城、宇都宮城多気城あるいは太田城

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金山城は、文明元年(1469)に岩松家純(いえずみ)によって築城されたといわれています。

その後、岩松氏の重臣である横瀬氏(後の由良氏)が実権を掌握し、実質的に金山城主となります。

越後の上杉氏、甲斐の武田氏、小田原北条氏などの戦国時代の武将たちに囲まれながらも、何とか生き延びていました。

金山城は、その間に10数回も攻撃されましたが、一度として落城しませんでした。

しかし、天正12年(1584)に小田原北条氏の謀略により、やむなく北条氏の支配下に入ってしまいます。

そのため、秀吉が天正18年に小田原北条を総攻撃した時、他の支城とともに落城。

北条氏の滅亡とともに、金山城は廃城となり歴史を閉じました。

 

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平成4年から行われた発掘調査結果に基づいて大手虎口や石敷きの城道などが復元整備されています。

金山城では、他の城址ではめったに見ることがない「アゴ止め石」が発見。

アゴ止め石とは、石垣基底部(最下部)の石を、石垣の面より10cm~20cm前に出して据え置く技法のことです。

これによって、石垣が沈み込んで前へ傾くのを防ぐと考えられています(写真がなくては分かりにくいですね)。

金山城全景図(※1)

金山城イラスト図(※2)

※1、2ともに、画像出典:太田市ホームページ「金山城跡のパンフレット」より https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/files/kanayamajoato.pamph.pdf

 

金山城は、標高236mの金山に戦国時代に築城された巨大な山城です。

金山全体の自然の地形を利用しながら、山頂の実城(みじょう=本丸)を中心に、四方に伸びる尾根上に、西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦などいくつもの曲輪を置き、これを堀切や土塁で守っています。

金山城の特徴は、石垣や石敷きがたくさん使われていること。

これまでは、戦国時代の関東地方の山城には、関西とは違って本格的な石垣はないといわれてきました。

しかし、金山城の本格的な発掘調査によって、その城郭史の常識が覆されたのです

山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられています。

いわゆる「根小屋」です。

大手虎口     by:photo-ac

平成4年から行われた発掘調査結果に基づいて、整備復元された大手虎口と石敷きの城道です。

排水溝も造られていますね。

大手道は、上るにしたがって緩やかに右に曲がっていきます。

周囲からだけでなく正面からも攻撃が出来るように考えられているのです。

大手虎口北下段曲輪    by:photo-ac

何段にも石垣を築いて曲輪を造っているのがわかりますね。

南上段曲輪  by:photo-ac

物見台下虎口    by:photo-ac

写真では分かりづらいのですが、石垣の手前は堀切となっていて、土橋は少し右にずれています。

写真には写っていませんが、向かって左の上に物見台があり、そこから土橋に来た敵を狙い撃ちできる構造です。

日ノ池   by:photo-ac

まん丸な「日ノ池」は、山頂近くにあります。

他の城郭では見たことがありません。

金山城築城よりもずっと昔(10世紀頃)に造られた、水に関わる祭祀を行うための土馬が、この日ノ池から発掘調査で発見されています。

このような遺物の出土から、日ノ池が単なる「貯水池」だけとは考えられません。

日ノ池のあったところは古来から水が出る場所で、水に関わる祭祀を行っていた「聖地」、神聖な空間であったと考えられています。

また、石垣と石敷きに囲まれた日ノ池の両端に、石組みの井戸址が二つあります。

このことから、池は戦勝祈願や雨乞いなどの儀式に使うためのもの、井戸は生活用水として使い分けをしていたのではないでしょうか。

月ノ池    by:photo-ac

大手虎口の入り口近くにある、一回り小さい「月ノ池」。この池も日ノ池と同じように石垣と石敷きで囲まれています。

この池も長い籠城戦に耐えられるよう、生活用水を確保するための貯水池であったと考えられていますよ。

金山城城址からの眺め  by:photo-ac

 

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新田神社     by:photo-ac

山頂部にある本丸跡には新田神社が建てられています。

 

【1泊2日の群馬県・埼玉県5城址巡り】

2007年9月26日から1泊で、群馬県と埼玉県の城址巡りをしました。

26日はまず埼玉県の騎西城を探訪。

町立博物館として三重の模擬天守が建造されていますが、残念ながら何故か閉館中でした。

残念です。

仕方ないので外観だけを楽しみました。

騎西城模擬天守    by:photo-ac

次に探訪したのは、今回の城址めぐりで楽しみにしていた金山城です。

思った以上の立派な石垣と石敷道に驚きました。

そして月ノ池と日ノ池は、これまで他の城址では見たことのない、初めて見る丸い立派な石垣で造られた池でした。

翌27日は箕輪城(「日本100名城」(第16番)へ。

天正18年(1590)に、徳川家康から箕輪城を与えられた井伊直政が近世城郭に改築したと伝わっている広大な城址です。

戦国期最大級とも言われている山上の多数の曲輪跡や、堀切、土塁など山城を存分に楽しみました。

続いて高崎城。

この城も井伊直政の城ですね。

直政は、箕輪城があまりにも山地に寄り過ぎているため交通の要衝だった和田に拠点を移し、中世の城郭を慶長3年(1598)に改築して名前も高崎城と改めました。

三の丸の、元々は土塁だったところにあらたに石垣を築いて二重の乾櫓が移築されていました。

高崎城乾櫓     by:photo-ac

続いて鉢形城に行きました。

鉢形城は、日本100名城第18番に選定されている城址です。

荒川の海岸段丘にある鉢形城も、秀吉の小田原攻めのさいに落城。

北武蔵を代表する戦国時代を代表する平山城でした。

発掘調査により曲輪や土塁が復元整備されています。

わずか2日間でしたが、関東の城址を存分に楽しんで大阪に帰りました。

 

金山城詳細

・住所:群馬県太田市金山町40-98

・アクセス:東武伊勢崎線太田駅北口から史跡金山城跡ガイダンス施設まで徒歩50分・車7分

・営業時間:24時間(ただし照明はないため夜間は暗闇)

・休業日:なし

 

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【参考文献】

財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、「国指定史跡 金山城跡 パンフレット」(太田市教育委員会文化財課)、「ウィキペディア 金山城」他

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