124回目は、群馬県の高崎城です。
高崎城は、徳川家康の命により、重臣の井伊直政(なおまさ)が戦国時代の和田城跡に隣接するところに築城した、水濠と土塁に囲まれた堅城の平城です。
慶長3年(1598)のことでした。
高崎城は、北国から関東へ入る交通の要衝、碓氷(うすい)峠の守りの要の城として築城されています。
城址に現在見られる石垣は、模擬石垣です。
残念ながら、写真で分かるように壁も薄く形だけのものですね。
せめて丸見えにならないようにできなかったのでしょうか……。
別称は和田城です。
私は高崎城へ、1999年6月5日に登城しました。
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高崎城は、正長元年(1428)に築かれた和田城が始まりです。
和田城は鎌倉時代から続く豪族の和田義信(よしのぶ)が築いたお城ですね。
豊臣秀吉の小田原攻めにさいし、和田氏は北条氏に従って小田原城に籠城しました。
小田原城開城のあと秀吉に所領を没収され、和田城も落城させられ廃城となったのです。
江戸に入封した家康は、重臣の井伊直政を12万石で関東上野(こうずけ)国の中心である箕輪城に入れます。
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しかし、交通の要衝であるうえに戦略上重要な碓氷峠を固めるには、箕輪城では無理だと家康は判断しました。
そのため家康は、開かれたばかりの中山道の押さえと、碓氷峠の入口にあたる烏(からす)川東岸の河岸段丘に、直政に新たに築城を命じます。
中世城郭の和田城の跡地を取り込みながらも、あらたに縄張りをし、箕輪城の構築物を流用。
規模も格段に大きくして近世城郭として築城したのですね。
慶長3年には直政が入城し、高崎城と名付けました。
それとともに、箕輪の城下の寺や町民も高崎に移します。
一大イベントの、大お引越しですね。
関ヶ原の戦いの後、井伊氏は近江の佐和山に転封となり、その後高崎城主は次々と入れ替わりました。
元和5年(1619)には、安藤重信が入城します。
安藤氏は3代77年間在城しました。
そして、この間に高崎城はほぼ最終的な完成をしたと思われます。
元禄8年(1695)になると、松平(大河内)輝貞(てるさだ)が5万石で入封、一時7年間ほど越後村上に移された後、享保2年(1717)に輝貞が再び入封し、大河内氏10代で明治を迎えています。
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上の画像は、正徳年間(1711~16)頃の絵図です。
高崎城と侍屋敷を記した絵図として現存最古のものだそうですよ。
本丸には三重の天守(御三階櫓)、本丸を囲む6、7mの土居の四隅に乾(いぬい)・艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)の二重隅櫓を設けています。
天守の屋根には千鳥破風が随所に据えられ、三階の妻側には華頭窓が開かれた、装飾的な建物だったようです。
本丸入口の槻木門は、箕輪城の大手門を移築したと伝えられる櫓門がありました。
槻木門の外側に梅木郭と呼ばれる馬出が構えられています。
本丸の東に二の丸、北側に榎郭、南に西の丸、西に西郭を置く連郭式の縄張りです。
西郭は、旧和田城の遺構を取り込んだもの。
またこの郭は南北に細長く、榎郭と西の丸を結んでいますね。
西の丸の南側に、通称瓦小屋と呼ばれている小さな郭があります。
二の丸の東側からぐるっと囲むように置かれているのが三の丸。
各郭を濠と土居が囲み、鳥川を背後の外濠としている堅城です。
箕輪から移された城下町も総郭として濠と土居で周囲を囲み(遠構 とおがまえ、ともいう)、七か所の木戸が設けられていました。
第二次世界大戦後、城跡は官公庁、学校、公共施設の敷地となり、遺構としては三の丸の土塁と水濠が残るだけとなっています。
乾櫓は、寛政年間(1789~1801)の建造といわれる二重櫓。
群馬県に現存する唯一の櫓の遺構です。
現在は大手門付近にありますが、もともとは本丸の北西隅にあった隅櫓ですね。
廃城後、高崎市内の農家の納屋として使用されていました。
しかし、昭和52年(1977)に現在の場所に移築されました。
移築のさいに櫓台の石垣が築かれましたが、これは史実とは異なる模擬石垣です。
東門は元々三の丸の東にあって、廃城後民家に移築されていました。
昭和55年に大手門付近の乾櫓の隣に移築復元されています。
東門は十六あった城門のひとつで、家臣などの通用門として使われていました。
高崎市が作ったYouTubeチャンネルで箕輪城から高崎城まで説明された動画がありました~。見ごたえたっぷりですよ!
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【1泊2日の関東4城探訪の旅】
1999年6月5日から1泊2日で、北関東の4城址の探訪を楽しみました。
これまた古い記憶になりますが、記録のために記載します。
5日
忍城は関東七名城の一つで、一国一城令の例外として残された城です。
昭和63年(1988)に行田市郷土博物館として、三重四階の層塔型独立式の模擬天守が建てられました。
今回の記事で詳細を紹介しています。
6日
沼田公園となっている沼田城(続日本100名城)に午前中に探訪。
豪族沼田氏によって築城され、上杉、武田、後北条氏の争奪戦の舞台となった城です。
後北条氏亡き後沼田城を領した真田信之は、本丸を石垣造りにして五重の大天守と三重の小天守を築城しました。
徳川幕府は、天和元年(1681)に真田氏を改易、城は破却されます。
しかし、交通の要衝であった三国峠を守備する必要から、元禄10年(1697)本多正水に再築工事を行わせました。
が、再築された沼田城は、真田沼田城の規模には及ばないものでした。
現在、遺構としてはわずかに土塁と石垣が残っているだけです。
沼田公園にある鐘は、2代目城主の真田信吉(のぶよし)が寛永11年(1634)に、領内の安全を祈願して鋳造させたものと伝わっています。
沼田城廃城後も市民に愛され、鐘楼が昭和58年(1983)建てられ、現在は複製の鐘が朝夕6時に時を告げています。
そのあと足利氏館(あしかがしやかた 日本100名城)に行きました。
平安時代末期、足利義兼(よしかね)が、現在の足利市のほぼ中央に築いた館が足利氏館(足利城)です。
東・西・北側の三方を山に囲まれ、南側には渡良瀬川が流れる防御に最適な場所に建てられています。
周囲を土塁と水濠で囲んだ鎌倉時代の典型的な武家屋敷(方形居館)ですね。
建久7年(1196)に、義兼は邸内に持仏堂をつくります。
これが大日如来を本尊として祀る鑁阿寺(ばんなじ)となります。
城郭というよりも、寺院としての性格が強い館ですね。
鑁阿寺は、足利尊氏が室町幕府を開いた後も、足利一門の本拠、氏寺として大事にされています。
「足利氏邸宅跡」として国の史跡にも指定されていますが、地元の人たちに「大日さま」と呼ばれ親しまれていますよ。
*高崎城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、南條範夫監修『日本の城 名城ガイド』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)他
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