前回は徳川大坂城を守る(上)でした。
今回は下になります。
では、上に続いて徳川幕府が命じて築城、大改修をした徳川大坂城を守る城を紹介していきますね。
大阪から京都へ向かう街道と川筋にある徳川大坂城を守る城として位置づけられていた城をまず見ていきましょう。
1、高槻城
高槻は、京都と大坂の中間に位置する要衝です。
そのため高槻城主も頻繁に交替し、その度に城郭も改修されたと考えられています。
江戸時代には、北摂唯一の城郭として重要な役割を果たしていました。
元和元年(1615)の大坂夏の陣のあと、元和3年に、西国大名への備えのため江戸幕府による大規模な改修工事が行われました。
慶安2年(1649)に、譜代大名の永井直清(なおきよ)が、3万6千石で高槻藩の初代藩主として入封してきます。
京都と大坂の間にある要の城に譜代大名を入れ、徳川大坂城を守る城として位置づけたことがわかりますね。
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2、淀城
元和9年(1623)、2代将軍の徳川秀忠は、伏見城の廃城を決定します。
京都の南側を固め、大阪と京都の交通路を守るために、秀吉が建てた淀城近くに新らたなる淀城の築城を掛川城主の松平定綱に命じ、3万5千石で転封させました。
徳川家が征夷大将軍就任式のために上洛する際、それまでは伏見城に宿泊していましたが、3代将軍家光の就任式が最後となりました。
それ以後は、天皇の勅使が江戸城に出向いていくことになったからですね。
徳川政権が強固なものとなってからは、朝廷も徳川家の意向に従わざるを得なくなったからです。
従って伏見城が不要になっただけでなく、水運で徳川大坂城と結ばれた木津川のほとりに、防御の面で優れた淀城の築城が考えられたのでしょう。
上の説明パネルは、享保8年(1723)に10万2千石で入封した、稲葉正知(まさとも)時代の淀城の縄張り図です。
説明パネルを見ると分かりますが、淀城は本丸から右回りに二の丸、三の丸と曲輪を並べてゆく渦郭式の縄張りですね。
桂川、木津川、宇治川が合流する水陸の要衝の地に築かれた平城、むしろ水城と言ったほうがよい堅城でした。
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続いて、山陰方面からの守りの城を見ていきましょう。
これらの城は関ヶ原の戦いの後、豊臣大坂城を包囲する城として築城や大改修され、譜代大名が城主として入封してきたものです。
3、丹波亀山城
丹波亀山城は、明智光秀が天正5年(1577)から築城した城です。
光秀滅亡後は、羽柴秀勝など豊臣氏の一族が城主を務めていました。
関ヶ原の戦いのあと、慶長14年(1609)に譜代大名の岡部長盛(ながもり)が入封します。
徳川幕府は、幕命で福島正則など有力な外様大名を動員して亀山城を大修築し、本格的な近世城郭に生れ変わらせました。
豊臣大坂城を包囲するかたちで、天下普請によって城を築いたり、修築したりして諸大名の財政を弱体化していくというのが、家康の戦略だったと考えられます。
写真は、典型的な層塔型で五重天守ですね。
築城の名手である藤堂高虎が自分の城として築いた、四国今治城にあった日本初の層塔型天守を移築したものと伝わっています。
岡部長盛が丹波福知山城へ転封後、三河西尾から譜代大名の松平(大給 おぎゅう)家が入封し、以後譜代大名が城主となっています。
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4、篠山城(日本100名城)
篠山城は、関ヶ原の戦いの後、家康の命令によって豊臣大坂城の包囲網のひとつとして、天下普請で築城されました。
この城も、家康の同じ考え方からの築城ですね。
篠山は、山陽、山陰、近畿を結ぶ交通の要であり、丹波から京都や大阪に通じる街道の要衝です。
丹波路にある篠山に徳川側の城を築くことにより、中国の毛利氏、堀尾氏などの豊臣系の大名と大坂の豊臣家とを分断し、自由に行き来することが出来ないようにするためでした。
腹心となった名築城家の藤堂高虎に縄張りを、普請の総奉行には娘婿の姫路城主・池田輝政(てるまさ)を当たらせます。
この篠山城築城に際しても、福島正則など西国15国20大名に天下普請を命じて、慶長14年(1609)3月から築城を開始、その秋にはほぼ完成したと言われています。
大坂城の豊臣秀頼との戦いを見据えた突貫工事だったのでしょう。
家康は、常陸国(ひたちのくに)笠間城から実子の松平(松井)康重(やすしげ)をうつし、篠山城の初代城主に据えます。
康重は、大坂夏の陣のあとの元和5年(1619)に岸和田城に移り、その後に藤井松平氏など譜代大名の松平氏一門が城主となっています。
寛延元年(1748)には、丹波亀山城から徳川幕府の老中として活躍する名門大名青山忠朝(ただとも)が5万石で入城してきます。
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では続いて、大坂から南側の城を見ることにします。
5、岸和田城(続日本100名城)
岸和田城は、紀州街道と大阪湾の水陸両方の交通の要衝の地に築城されています。
豊臣秀吉は、根来(ねごろ)衆や雑賀(さいか)衆などの一向宗勢力を滅ぼした後、叔父の小出(こいで)秀政を天正13年(1585)に城主として岸和田城に入れます。
秀吉も岸和田を重要な城として位置づけていました。
慶長2年(1597)に完成した天守は五重だったようで、正保2年(1645)に作られた絵図には、熊本城や松本城のように、天守の壁には黒く塗られた腰板が貼られている姿が描かれています。
とても立派な天守だったのでしょうね。
黒っぽい、典型的な織豊期の天守建築だと思われます。
豊臣家が滅び、元和5年(1619)には前述した丹波篠山から5万石で松平康重(やすしげ)が入封します。
二の丸に伏見城の櫓の移築が行われ、城郭、城下町の普請、整備がすすめられました。
そして寛永17年(1640)に、岡部宣勝(のぶかつ)が高槻城から6万石で入城します。
また、尼崎城と同じく徳川大坂城の守りの城としての役割も与えられ、徳川家にとっては重要な城でした。
宣勝は城の大改築を行い、外郭を整え、紀州街道を城下に組み入れています。
すぐ前が大坂湾でした。
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以上見てきたように、徳川大坂城を守る城には、高槻城や丹波亀山城、篠山城、岸和田城などの譜代大名が、入れ替わりながら務めていたことがわかりますね。
最後は、大坂湾の入口である紀伊水道を抑える役割を持つ和歌山城です。
6、和歌山城(日本100名城)
秀吉は、紀州平定後の天正13年(1585)に、弟の秀長(ひでなが)に紀伊・和泉・大和の三国の支配を委ねます。
その後、関ヶ原の戦いの軍功により、浅野幸長(よしなが)が紀伊国37万石で和歌山城に入城しました。
幸長は和歌山城の防護力をより強固にするために、城域を拡大するとともに内濠と石垣の改修をしています。
元和5年(1619)に幸長は広島城へ移封、代わって家康の第10子である徳川頼宜(よりのぶ)が55万石余で入封してきます。
これにより、和歌山城は、徳川幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担っていきます。
頼宜は入城後、将軍の秀忠から2千貫を与えられ、藤堂高虎の助言により城郭の大拡張・修築を行いました。
また、一国一城令の例外として、広大な領地であることを理由に、新宮(しんぐう)、田辺、松坂に三つの支城を築くことが認められています。
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【参考文献】
平井 聖監『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年㋆15日初版発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)他
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