日本全国にあるお城。
見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
今回は、徳川幕府が命じて築城、大改修をした徳川大坂城を守る城について書いていきます。
その前に、まずは歴史のおさらいですね。
徳川大坂城ができるまでの流れをみていきましょう。
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徳川家康は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで石田三成を中心とする西軍を破り、豊臣側についた諸大名を改易や減封、国替えをして、その勢力を削いでいきます。
慶長8年に征夷大将軍となり江戸幕府を開くと、日本全国の諸大名の支配を強力に推し進めていきました。
まずは、豊臣大坂城攻撃の準備のために、家康が豊臣秀頼のいる豊臣大坂城を包囲する形で築城を命じたり、修築させたりした城を確認しましょう。
同15年:西国大名を動員して丹波亀山城修築。池田輝政が姫路城を増築。
戦いの準備が整うと、慶長19年9月に大坂城を攻撃、いったん和睦を結ぶも翌元和元年に大坂夏の陣を勃発させ、5月に豊臣大坂城は落城。
ここに、豊臣家は滅亡してしまいます。
大坂城落城の翌7月に「一国一城令」を出し、各国の大名の居城(本城)以外の支城などを破却させました。
続いて「武家諸法度」を定め、各大名の居城の補修についても徳川幕府への届け出制とし、徳川幕府の許可なく築城はもちろん、修築さえも厳しく制限します。
とても周到に準備された、諸大名封じ込めの施策ですね。
そして最後の仕上げが「正保城絵図」です。
正保元年(1644)のことでした。
これは、城郭内の構造物や石垣の高さ、濠の深さ、幅などの軍事情報を精密に記載するだけでなく、城下町の町割りや山、川の位置や形が詳細に描かれたものです。
これによって、城郭、城下町の軍事上の秘密が丸裸にされてしまうわけですね。
徳川幕府は、大坂を幕府直轄地で西国支配の拠点とします。
そして寛永6年(1620)、豊臣大坂城の縄張りを新たにし、豊臣大坂城の石垣の上に盛土をして豊臣大坂城の規模を大きく上回る徳川大坂城の築城が開始されます。
それも西国大名を中心に、なんと全国65家の大名を参加させるいわゆる天下普請でした。
これで狙ったのは諸大名の藩財政の弱体化です。
近年、大阪城の発掘調査によって、徳川大坂城の地下から豊臣大坂城の石垣が発見されています。
近いうちに、その発見された豊臣大坂城石垣が一般公開される予定ですよ。
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さて、ようやく本題です。
いよいよ本題の徳川幕府が命じて築城、大改修をした徳川大坂城を守る城を紹介していきますね。
まず、西国大名の抑えの城として、瀬戸内海を監視しながら、山陽道の守りの城を見ていきましょう。
元和3年の尼崎城築城とともに、翌4年には重臣小笠原忠真(ただざね)に明石城築城を命じ、6年に重臣の水野勝成を大和郡山から転封させて、新たに福山城の築城を命じます。
また赤穂城の築城も行われました。
徳川幕府は、こうして徳川大坂城の守りの城、西国への備えの城を、一国一城令の例外的な措置として新規築城を立て続けに譜代大名に命じ、鉄壁の守りを固めていったのですね。
今回は、尼崎城から西に向かって順番に紹介していきます。
1、尼崎城
尼崎城は、5万石大名の居城としては大きすぎるほどの規模の城郭で、平城ですが、むしろ海城ともいうべき城でした。
城主である戸田氏鉄は寺町を含む城下町を整備し、卓越した土木技術により治水事業も進め、近世尼崎の基礎を築きます。
尼崎城は岸和田城とともに、大坂城の守りの城と位置付けられています。
そのため、参勤交代は岸和田藩と交代ですることになっていました。
これは大坂城の守りが手薄にならないようにという、徳川幕府の配慮ですね。
また、大坂城城代交代の儀式には、尼崎城と岸和田城主だけが招かれていたそうです。
いかに尼崎城と岸和田城が重要視されていたかがわかりますよね。
それも個人が造り、尼崎市に寄贈された城なんですよ。
2、明石城(日本100名城)
徳川家康の外孫のひとり、小笠原忠真(ただざね)は、大坂夏の陣の戦功によって10万石で信濃松本から明石へ入封してきます。
2代将軍の徳川秀忠は、忠真に姫路城主の本多忠政と協力して新しく城を築くことを命じ、三人の普請奉行を派遣しました。
この際に幕府から補助した金銭は、築城費用として銀千貫目(約31億円)。
これは5万石に相当しますので、破額の築城費用の援助をしたことになりますね。
さらに伏見城から坤櫓が贈られるなど、大変手厚い援助を受けています。
明石城の築城が、いかに徳川幕府にとって重要なことだったかがわかる事実です。
明石城は、徳川大坂城の西の守り、西国の押さえとして姫路城の後詰めの城として築かれており、明石海峡を望む標高約30mの丘陵の南端に築城されています。
下のポスターに描かれている明石城絵図を見るとよくわかりますが、海のすぐそばに築城されていました。
城下に港湾を持つことからいえば、変形の海城ともいえるでしょう。
三重三階建ての二つの櫓は、白漆喰総塗込めのまばゆいばかりの姿です。
明石海峡にむかってその美しい姿を見せているのは、明石海峡を通る船を意識しているからでしょうか。
また、当時本多家に仕えていた宮本武蔵が町割りを、幕府から派遣された小堀遠州が造園を手伝ったそうです。
3、姫路城(世界遺産・国宝・日本100名城)
関ヶ原の戦いで戦功をあげた池田輝政は、播磨一国52万石を与えられました。
そして、慶長6年(1601)から9年の歳月をかけ、豊臣秀吉の作った姫路城を縄張りから改めて、現代の姫路城を築き上げます。
徳川家康は、自身の次女・篤姫と再婚した輝政を、西国の外様大名を抑え込むために最大限利用したのです。
ちなみに輝政は、松平の姓も許されていますよ。
4、福山城(日本100名城)
福山城は、岡山の池田氏、広島の浅野氏の両外様大名の間に割り込み、さらに西の毛利氏や九州の諸大名に対する備えとして築城されます。
城主の水野勝成はは三河(現在の愛知県東部)出身で、徳川家康と従兄弟であったため、中国地方に配置された最初の譜代大名となりますね。
勝成は、豊富な城攻めの体験を持っている武将でした。
自身の経験をもとにして、瀬戸内海に面し山陽道の要衝の地、福山湾を一望する芦田川河口に近い常興寺(じょうこうじ)山に場所を決め、大城郭福山城を完成させます。
元和8年(1622)のことでした。
これは「武家諸法度」の例外措置として徳川幕府が認めた築城で、近世城郭として完成された形を示していたと言われています。
「西国の鎮衛(ちんえ)」という異名を持つ、譜代大名の城郭としては最大規模のものでした。
なんと、徳川御三家の水戸城や和歌山城ですら許されなかった五重の天守建造をも認められています。
水野が与えられたのは1万2600両の金、380貫目の銀、さらに城大工棟梁の福井正次をはじめ、多くの大工職人などです。
天下普請に準ずる扱いでした。
福山城が西国の外様大名に対する防衛のための築城であったからですね。
旧領主の支城・神辺城から多くの櫓を移築して本丸石垣上に並べ、伏見城から本丸御殿、伏見櫓、月見櫓、大手門、筋鉄御門、御湯殿、多聞、塀など多くのものが幕府の命で移築され、五重天守のまわりに並べられたそうです。
5、赤穂城(日本100名城)
赤穂城は、慶安2年(1649)に近世城郭として本格的に築城されました。
元和元年の「武家諸法度」にもかかわらず、そして外様大名でありながら、幕府の許可が降りた特別な例です。
しかし、実はいざ戦いというときに備え、高松藩の譜代大名(松平氏)をスムーズに上陸させられるように仕組んでいたと言われています。
赤穂城は地図をみると良くわかりますが、濠に海水を引き入れた水(海)城です。
備前・播磨の制海権を確保するために築城されたことがよくわかりますね。
以上、瀬戸内海と山陽道をおさえる五つの城を見てきました。
これらの城を破り大坂を攻めることが、いかに難しいことかわかりますよね。
次回は、そのほかの城を見ていきます。
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【参考文献】
平井 聖監修『城』(毎日新聞社)、日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年㋆15日初版発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)
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