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お城にざっくり関係ある雑学を語ります。
築城者紹介の5回目ですね。
今回紹介する中井正清(なかい まさきよ)はいわゆる城大工。
江戸時代初期の徳川幕府の大工頭を務めた人です。
彼は今まで当ブログで紹介してきた築城の名人、藤堂高虎や加藤清正などの普請(土木工事)を中心とする築城名人とは違います。
そして作事(建築工事)を得意とする小堀遠州などともやはり違い、天守建築などを専門とする築城の名人です。
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中井正清は、永禄8年(1565)に大和国・現在の奈良県法隆寺西里村で生まれました。
氏は「巨勢(こせ)」と言い、名は「正清」「正次」、そして通称は「藤右衛門」「主水」です。
法隆寺四大工の一人でした。
正清は、寺社建築の技術を城郭建築に生かした代表的な城大工です。
他には安土城天主を築いたことで有名な岡部又右衛門(おかべ またえもん)などがいます。
一般に「城大工」という城専門の職業集団が存在したのではなく、宮大工が築城時に関わったものと考えられています。
天守によく見られる華灯窓や唐破風などがそれを証明しているのかもしれません。
正清は天正16年(1588)の24歳の時、畿内・近江6カ国の大工大鋸(おが)支配を任されます。
そして徳川家の大工頭として200石で家康に召し抱えられ、家康に直接仕える家来・直参(じきさん)として数多くの幕府の作事に関わりました。
初代の京都大工頭ですね。
関ケ原の戦いで家康の供を務め、陣羽織を拝領したほか500石の加増を受けます。
慶長7年から二条城の造営に従事、これと並行して徳川氏再建の伏見城造営にも携わりました。
二条城と伏見城の作事が完了した11年には、大和守に任官。
続いて江戸城天守の作事や家康の隠居城駿府城の再建工事に携わりました。
同14年には大和国で1,000石に加増を受けています。
翌15年に名古屋城の作事に取り掛かり、17年に完成。
翌年天皇の住居である禁裏造営の功により、大工としては異例の従四位下に叙せられていますよ。
二条城
日本100名城(第53番)
慶長8年(1603)にここで征夷大将軍拝賀の儀式を行っています。
その後改築が行われ、家光の時代寛永3年(1626)後水尾(ごみずのお)天皇行幸を迎えるため、本丸御殿と総塗籠の五重天守が築城されます。
この作事には中井家2代目正清の子・中井正侶が携わりました。
現在は遠侍(とおざむらい)、式台、黒書院、白書院などからなる武家風書院建築の二の丸御殿が改修された姿で現存しています。
平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
江戸城
日本100名城(第68番)
江戸開幕後、徳川将軍家の居城として家康が築城。
日本最大の城郭でした。
明治維新後明治天皇が遷都し、東京城と名を改め、現在は皇居と呼ばれています。
本丸、二の丸などは江戸城址として一般に公開されています。
駿府城
日本100名城(第41番)
家康が隠居城として改築。
天下普請で西国大名たちに修築を命じ、三重の濠と六重七階の大天守を持つ城に大改築させました。
しかし、天守は出火で寛永12年(1635)に焼失、以後再建されることはありませんでした。
名古屋城
日本100名城(第44番)
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を抑え込むために、慶長15年(1610)に西国大名らに命じて天下普請で築城した巨城。
広大な城域に五重七階地下一階の大天守と小天守、多くの多門櫓と櫓を立て並べた当時最大の城郭でした。
昭和34年(1959)に天守が再建、平成30年(2018)には本丸御殿が再建されています。
中井正清は徳川家の作事方として江戸城などの城だけでなく、京都知恩院、芝増上寺、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川関係の重要な寺社の建築にも携わっています。
また正清は建築だけでなく江戸の町割りにも関わっていたそうです。
何でもできる人ですね……。
元和5年(1919)に55歳で逝去しました。
【中井正清が関わった寺社建築・知恩院】
開基は宗祖・法然です。
法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のように大規模の伽藍が建立されたのは江戸時代以降です。
家康は浄土宗を信仰しており、慶長13年(1608)から知恩院の寺地を拡大して諸堂の造営を行っています。
引き続いて秀忠が三門を建設、寛永10年(1633)の火災のあと、3代将軍家光が再建しました。
【中井正清が関わった寺社建築・増上寺】
東京都港区芝にある増上寺は、浄土宗の寺院。
徳川家康が江戸入府の後江戸城の拡張に伴い、慶応3年(1598)家康によって現在地の芝へ移されます。
徳川家の菩提寺です。
【中井正清が関わった寺社建築・日光東照宮】
江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀っています。
日本全国の東照宮の総本社的な神社です。
【中井正清が関わった寺社建築・久能山東照宮】
駿府で晩年を過ごした徳川家康が元和2年(1616)に死去した後、遺命によって久能山に埋葬されました。
元和3年に2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されました。
正清以後も中井家は徳川幕府に仕え、大坂城天守をはじめ数々の建築に携わっています。
昭和35年(1960)に、中井家から豊臣時代の大坂城本丸図が発見されました。
また大坂の陣の直前に、家康の密命により大坂城の絵図を作成したという逸話も残っています。
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【参考文献】
Wikipedia「中井正清」他「知恩院」など、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、同『続日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2018年5月7日第6刷発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年㋆15日発行)「別冊歴史読本◎入門シリーズ日本城郭大辞典」(新人物往来社 1997年6月27日発行)他
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