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48回目は、千葉県の大多喜城です。
大多喜城は、徳川家康の勇将・本多忠勝(ほんだ ただかつ)が築城した壮麗堅固な城でした。
三重天守と九基の隅櫓が夷隅(いすみ)山系の、天然の要害の地に威容を誇った平山城です。
当時の華麗な城郭は、この地に漂着したスペイン人、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロの『日本見聞録』によって世界に紹介されました。
2017年に「続日本100名城」(第122番)に選定されています。
先に少々歴史を紹介しておきますね。
豊臣秀吉が小田原城を攻略した後、徳川家康は関東に移封され、江戸を中心とした関東一円を領することとなりました。
家康は、天正18年(1590)に大多喜10万石を、重臣で徳川四天王と呼ばれた本多忠勝に与えます。
忠勝ははじめ、根古屋城という砦に近い城に入城。
ここは戦国時代に正木氏の居城だったところですね。
しかし根古屋城は狭小で、忠勝はその当時の戦い方には不向きと考えます。
そして、もっと南の岡の上の現在地に近世城郭大多喜城を築くことにしたのです。
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大喜多城へは1998年3月8日に登城しました。
半島状の標高73mの台地の先端にあり、南側は30mの断崖、その下は蛇行する夷隅川という天然の要害の地に本丸を置いて三重の天守を建立しています。
そして東側の平野に二の丸、三の丸を順次造営。
二の丸に4基、三の丸に5基の隅櫓を建て、自然と人工による三重の堀を巡らせて各曲輪を囲みます。
二の丸に城主の御殿と重臣の屋敷、三の丸に家臣の屋敷や倉庫を設置。
二の丸には直径が約5mもの大井戸を掘っていました。
これは安房館山の里見氏に備えた配置であったと言われています。
本多忠勝は慶長6年(1601)伊勢桑名に転封しました。
本多氏3代目の政朝(まさとも)が元和3年(1617)に播磨龍野(兵庫県)へ転封した後、阿部氏、青山氏など譜代の小大名の居城となり、最終的には松平正質(まさただ)で明治維新を迎えます。
里見氏が山陰の日本海に臨む現在の鳥取県・伯耆(ほうき)国倉吉に改易されると、大多喜城の重要性が低下しました。
そして元禄12年(1699)、幕府の命により大改修され、規模は縮小されてしまいます。
本多忠勝が築いた三重天守は、天保13年(1842)に二の丸御殿とともに焼失しました。
御殿は再建されましたが、藩の財政事情から天守は再建されないままで幕末になります。
現在の天守は、天保11年の絵図をもとにして昭和50年(1975)に再建された模擬天守です。
鉄筋コンクリート造りで三重四階、地下一階。
白漆喰総塗籠で付櫓を持つ層塔型複合式天守です。
大きな千鳥破風と軒唐破風、唐破風の出窓をもっており、とても重量感がありますよね。
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大多喜城は明治初年に徹底的に破壊されたうえに、二の丸が大多喜高校になっています。
さらにかつての大手門から本丸に至る通路は失われるなど、改変されたところが多く石垣なども残っていません。
しかし、二の丸御殿の薬医門と高校のグランドの一隅に、忠勝が掘らせた大井戸が現存しています。
これは貴重な遺構です。
外堀はいすみ鉄道の大多喜駅の構内となっていて、排水口と濠の一部が残っていますよ。
大多喜の城下町は房総街道の宿場町でもあり、房総では最も栄えていました。
城下町の面影を残す建物が点在しています。
その中でも渡辺家住宅は、藩の御用金を任された豪商の現存住宅です。
嘉永2年(1849)に建造された二階建ての建物(重要文化財)で、店には帳場や机などが幕末のまま残されています。
しかし、現在も子孫が住んでいるので公開はされていません。
ちょっと残念ですね。
【私の房総半島城巡り】
1998年3月7日から1泊2日で房総半島城巡りをしました。
7日に久留里城と館山城を攻城し、館山で1泊しています。
そして翌8日には大多喜城を探訪。
これは、模擬天守というより天守風建築物といったほうが正しいと思われますね。
房総半島の春と鉄道を楽しみながら、千葉県の4城を探訪して帰阪しました。
*大多喜城詳細
・営業時間:09:00~16:30
・休業日:毎週月曜日、12月26日~1月4日
【参考文献】
平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)他
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