日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

気ままにぶらっと城跡へ㉖丹波亀山城へ行ってきた

丹波亀山城外の南郷公園に設置されている明智光秀

「気ままにぶらっと城跡へ」の第26回目は、京都府亀岡市にある丹波亀山城です。

えー、上の写真、霞んでてすみません。

丹波亀山城は、京都と山陰・中国地方を結ぶ、軍事・政治・経済面の要衝の地である亀岡に、明智光秀丹波攻略のために築城した平山城です。

また、歴史の大転換となった「本能寺の変」出陣の城で、二度と帰ってくることができなかった光秀の城でもありました。

明治2年に亀山が亀岡と改称されたのは、「版籍奉還」にともない伊勢国亀山との混同を避けるためでした。

別称は、霞城、亀宝(きほう)城、亀岡城

2024年3月8日に、再攻城してきましたので記事にいたしますね。

 

亀山城攻城の前に、近くにある亀岡市文化資料館で亀岡城のことを調べてから行くことをおすすめします。

また、亀岡城址は現在、大本教の本部となっていますが、正門から入って左側にある「みろく館」で「大本神苑拝観券―丹波亀山城址」(2024年現在300円)を購入すれば城址を見学できます。

「みろく館」の1階ロビーには亀岡城大本教に関する資料展示がされており、事前学習によい展示となっていますよ。

大本教天恩郷 みろく会館1階の展示パネル

 

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丹波亀山城は、中世の亀山(荒塚)城のあった亀山の丘陵に、明智光秀天正5年(1577)から同7年にかけて築城、丹波平定の拠点とした城です。

明智光秀は、築城後わずか3年後の天正10年6月、本能寺にいた主君・織田信長を討ち、そのあと山崎の戦い羽柴秀吉に敗れ、死亡しました。

丹波亀山城へは、信長の子供で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝小早川秀秋、続いて五奉行のひとりの前田玄以が5万石で入ります。

関ヶ原の戦いの後の慶長14年(1609)に、下総(しもふさ)国山崎からに岡部長盛(ながもり)が3万2千石で入封します。

さらに元和7年(1621)、丹波福知山に移封した長盛に代わって、三河国西尾から松平(大給)成重が2万2千石で入封。

その後城主は次々と変わりますが、亀山は京都に近い要衝として重視されたため、有力な徳川譜代大名が入ります。

元禄15年(1702)に5万石で青山忠重が入封。

寛延元年(1748)になって丹波篠山城主と交代し、松平(形原)信岑(のぶみね)が5万石で入封、その形原(かたはら)松平氏で明治を迎えました。

大正8年(1919)に、宗教法人「大本(おおもと)」の教祖である亀岡出身の出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が丹波亀山城の本丸・二ノ丸址などを購入し、大本教の聖地としました。

 

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丹波亀山城城絵図」(「京都・亀岡 明智光秀マップ」より)

丹波亀山城は、明智光秀以後も歴代の城主によって整備されてきました。

しかし最も大規模に整備されたのは、慶長14年に入城した岡部長盛の時代です。

このとき徳川幕府は、福島正則浅野幸長などの有力な外様の諸大名に助役させて、いわば天下普請の形で丹波亀山城を大改修し、大規模な近世城郭に生れ変わらせています。

これは、豊臣秀頼のいる大坂城との戦いに備えた大改修でした。

丹波亀岡城は、亀岡盆地を流れる桂川の右岸にある丘陵に築かれています。

城域の北寄りに上下二段に分けた本丸を置いて、上段に天守と御殿を建て、周
囲を多聞櫓で固めていました。

下段の二の丸、二の丸の外側に広がる凹形の郭は、武家屋敷が置かれた三の丸です。

周囲を土塁と外濠で固めていました。

天守は、名築城家としても有名な藤堂高虎が、四国今治に自分の城として建造した今治城天守を移築したと伝わっていますよ。

日本初の、破風などの飾りがまったくない層塔型天守です。

丹波亀山城南側は、内濠、外濠、総濠の三重の堀と城内に町家も取り込んだ総構えと川に守られ、周囲は湿田という難攻不落の堅城でした。

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丹波亀山城天守(『城 5 近畿』より)

丹波亀山城天守は、上の古写真で分かるように、破風などの装飾がまったくありません。

規則的に逓減させたシンプルな姿の、白漆喰総塗籠層塔型の「白い天守」です。

最上階には伝統的な廻り縁を置いて、層塔型の最新式の姿と伝統的な格式を備えた天守と言えます。

本丸に巡らされた多聞櫓には、隅だけでなく途中にも石落としを備え、防御力を高めていたことが写真でわかりますね。

みろく会館展示パネル

明治の廃城後、天守以下の建物は払い下げられ取り壊されました。

石垣の石はJR山陰線の敷設工事に転用され、丹波亀山城城址はその姿を失い、たんなる土の小山のようになっていたそうです。

城址は、大正8年宗教法人大本の所有となり、出口教祖の指導と信者の協力により石垣などが修復され、城内の整備がなされました。

しかし、大本教昭和11年(1936)に治安維持法による結社禁止令を受け、政府により大本教の施設や石垣までも徹底的に破壊されてしまいました。

その後、第二次世界大戦の後に治安維持法違反や不敬罪などが無罪に。

城址は再び大本教信者の協力を得て、天守台付近の石垣を中心に復元され、現在の姿に蘇ったのです。

丹波亀山城址でみられる現在の石垣は、埋もれた土の中から掘り出した石などで新たに積み直されたもの。

現在丹波亀山城址は、春は白梅、山桜、秋は紅葉と四季折々の美しい景色を楽しめる、大本の聖地「天恩郷」として大切にされています。

天下普請の刻印の説明板

天下普請によって築かれたことを示す刻印された石

本丸石垣 右の石段から上の本丸跡は神域で入場禁止

万祥池(内濠の名残)

本丸入口に当たる一の門

一の門を入って正面に本丸の石垣

二の丸址にある井戸

濠の中の島(正面) 江戸時代には弾薬が収められていたらしい

内濠

丹波亀岡城スタンプ


(写真は筆者撮影・撮影許可はもらっています)

 

京都亀岡市の公式YouTubeがわかりやすいです!

youtu.be

 

丹波亀山城詳細

・住所:亀岡市荒塚町内丸1

・アクセス:JR嵯峨野線亀岡駅から南へ徒歩10分

・営業時間:9:00〜16:00(最終受付15:30)※宗教法人大本の本部があるため、見学受付(みろく会館)のこと

・休業日:年中無休

 


【参考文献】
平井聖監修『城 5 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発
行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年
7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』((講談社+α
文庫 1998年11月20日第1刷発行)、『城 其ノ一』、『同解説編』(日本通信
教育連盟)、「丹波亀山城と大本」(パンフレット 大本教学研鑽所事務局)、
「京都・亀岡 明智光秀マップ」(発行亀岡市 2021年2月作成)他 

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