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91回目になりました!
今回は、岐阜県の苗木城を紹介します。
苗木城(なえぎじょう)は、木曽川に面した標高433mの急峻な高森山山頂に築かれた天然の要害です。
自然の巨岩と石垣が見るものを圧倒する城郭で、近世大名の居城としては大変珍しい山城でした。
「絶景! 山城ベスト10」の第1位に選ばれていますよ。
別称は霞ケ城(かすみがじょう)、赤壁城(あかかべじょう)、高森城。
「続日本100名城」(第142番)に選定されています。
苗木城へは2005年4月29日に登城しました。
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苗木城は、遠山直廉(とおやま なおかど)によって天文年間(1532~55)に築城されたといわれていますが、他にも鎌倉時代に美濃岩村の遠山氏の支城として築かれたという説もあります。
戦国時代の遠山氏は武田氏、織田氏に挟まれた地にあって、織田信長の妹を妻にするなどの姻戚関係を結び生き延びていました。
しかし、信長が本能寺の変で死亡すると、天正11年(1583)には森長可(ながよし)に攻め取られてしまいます。
遠山友政(ともまさ)は、逃れて家康のところに身を寄せました。
苗木城は森忠政、続いて川尻直次の居城となっていましたが、関ヶ原の戦いで徳川家康のもとにいた遠山友忠・友政親子が、家康の許可を得て苗木城を奪い返します。
そのあと遠山氏は1万5000石で本領地を家康から与えられ、苗木城は以後12代270年遠山氏の居城として明治維新を迎えます。
江戸時代の始めから最後まで1つの家が城主だったんですねー。
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苗木城の特色は、むき出しの岩盤の巨岩を巧みに利用した石垣です。
現在残っている石垣などの遺構は、藩祖遠山友政によって修築されたものといわれています。
苗木城は岩山の制約のなかで、天守台をはじめ各櫓などの土台は自然の岩盤を利用して造っていました。
また、露出した巨岩とそれを利用して巧みに組み合わせた石垣を築いています。
山頂の本丸へは、大手門の風吹門から三の丸に入るのが正しい道。
その北手には、風吹門を監視する着到櫓としての大矢倉が聳えていました。
三の丸から南の大門を抜けて二の丸に行きます。
二の丸は、その上にある本丸を囲む帯曲輪の部分と、居館があったところとに分かれていました。
帯曲輪には物見櫓、二重櫓の具足蔵、御朱印蔵、上之広間などの櫓や多聞櫓を建て、西のほうには城主の居館を建築。
充分な敷地が確保しにくいため、天守や櫓などの建物も崖から斜面に突き出して築く懸造(かけづくり)だったといわれています。
※懸造:石垣や岸や池などの上に長い柱と貫(ぬき)で固定し、床下を支える建築方法。京都清水寺が有名。
巨大な岩を巧みに利用して土台として造られた天守台には、三重の天守とそれに続く千畳敷が建造されていたそうです。
現在は、当時の柱穴を利用して懸造の展望台が作られていますよ。
360度のパノラマ展望を楽しめます。
また、狭い本丸には天守の他台所・居間・次の間などが作られていました。
三の丸の北西隅に、二重三階建ての御鳩部屋と称した大矢倉が建てられていた櫓台の石垣。
一番下手前隅に大きな岩石が見られますね。
苗木城内最大の建物でした。
苗木城復元CGを見ると、岩山にへばりつくように天守をはじめ多くの建物が建造されている、他に例のない特異な城郭に驚きます。
▼浅野浩司氏作成のCGによる復元
画像出典:岐阜の宝もの「ひがしみのの山城」 - YouTube2:44
明治になって、城の建物はすべてなくなりました。
しかし天守台や千畳敷跡をはじめ、いくつかの門の跡や大矢倉跡の石垣が良好な形で完存しています。
また二の丸御殿の礎石、御朱印蔵、千石井戸、龍王権現などの遺構や旧跡がよく残っていますよ。
城址は、昭和59年(1984)から本格的な発掘整備が始まり、史跡見学ルートができました。
本丸や二の丸、三の丸の石垣の整備が平成16年までに行われ、随所に絵図などを使った案内板が設置されていて、昔の苗木城の姿を偲べるようになっています。
昭和56年には国の史跡に指定されました。
平成17年に造られた天守展望台からは、木曽川や恵那山、中津川市街が一望でき、360度の絶景を楽しめます。
苗木城址を訪れるときには、苗木城址の入口付近にある「苗木遠山史料館」を先に訪問してくださいね。
ここには、苗木城に関わる資料が展示されています。
苗木城の復元模型も展示されているので、登城する前に見学して理解しておくと苗木城の探訪がより深まることでしょう。
[【ドローン空撮動画】
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城内には龍王大権現社が建立されています。
以下は築城時の伝説によるもので、別称の赤壁城の由来です。
この龍は白い色が嫌いでした。
時の城主・遠山直次が苗木城を近世城郭として大修理するとき、櫓や塀をすべて白漆喰で塗り固めてしまいました。
ところが龍神が嵐とともにやってきて白漆喰を搔きむしり、泥まみれにしてしまいました。
それから何度塗り直しても、龍神が木曽川を氾濫させて壁を泥壁にしてしまいます。
そこで今度は近くで取れる赤土で塗ると龍神の怒りがおさまったのです。”
伝説ですね。
それから、赤壁城とも呼ばれるようになりました。
【苗木城探訪時の余談】
私は2005年4月29日に苗木城を探訪したあと、恵那で一泊。
遺構などほとんど何も残っていない城跡でしたが、至る所にきちんとした説明板が設置されていましたよ。
珍しかったのは「猿戻し」というものでした。
「猿も登れず引き返すという、山城防塞独特の絶壁である」と説明文に書かれていました。
近くに当時司葉子さんが村長を務める「日本大正村資料館」があり、明智町を日本大正村として観光化していました。
興味深い旅でしたので、皆様もぜひどうぞ。
*苗木城詳細
・アクセス:JR中津川駅前より北恵那交通バス苗木・付知方面 約10分「苗木」下車。徒歩約30分
・営業時間:24時間
・休業日:不明/苗木遠山史料館は月曜日(月曜日が祝日等にあたる場合はその翌日)が休館日
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京棠出版 2002年㋆15日発行)、『関西の城あるき』(京阪神エルマガジン社 2019年10月7日初版発行)他