47回目は、長野県の上田城です。
規模はそんなに大きくはありませんが、本丸背後の崖下を水深の深い千曲川の分流(尼ケ淵)に守られた堅固な平城です。
別称は伊勢崎城、尼ケ淵城(あまがふち)城、真田城。
2006年に「日本100名城」(第27番)に選定されています。
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上田城は、千曲川に臨む断崖の上に、真田昌幸(まさゆき)が天正11年(1583)に築城しました。
真田昌幸は、戦国の知将として誉れ高い人ですね。
徳川の攻撃を2度もはねのけたこと(※最後に紹介します)で、真田氏の名を天下に轟かせています。
真田親子が東西に分かれて戦った(※)関ケ原の戦い後、上田城は廃城となります。
建物は取り壊され、濠も埋められて塀も壊し、土居も崩されました。
しかし、徳川方について戦った真田昌幸の長男・信之(のぶゆき)は、その軍功により元和2年(1616)年に95,000石を与えられて上田城に戻ります。
ただし城の修復は行わず、三の丸に館を構えました。
徳川幕府に謀反の疑いを掛けられないようにですね。
※父・真田昌幸と次男・信繁が西軍(豊臣軍)、長男・信之が東軍(徳川軍)。
次男の信繁は幸村という通称が有名ですが、本人が幸村と名乗った証拠は1つもなく、生存中の自署はすべて信繁です。
元和8年(1622)に真田信之は松代に移封、代わって仙石忠政がやってきます。
忠政は寛永3年(1626)から城の改修に取り掛かりました。
埋められていた濠を元通り掘り起こし、それまでの土塁を石垣に直したりして改修工事を進めます。
しかし翌4年忠政は死去し、改修工事は中断したままになります。
宝永3年(1706)になってから松平忠周(ただちか)が入城、城は小規模な手直し程度しか行われないで、7代後に明治を迎えます。
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現在の上田城址は仙石氏時代のものです。
私は2001年11月10日に上田城に登城しました。
真田氏はもともと、上田城の東北8Kmほどのところにある真田郷を本拠としていました。
領土拡大にともない、昌幸の時に交通の要衝である平野部の上田に築城します。
昌幸は千曲川の断崖を背にして、ほぼ四角形の本丸を置き、本丸の東・北・西の3面を二の丸で囲み、本丸と二の丸をあえて小さく作っています。
これは2、3,000の兵力でも守れるようにするため。
西に小泉曲輪、東に三の丸を置いた半輪郭式の縄張りです。
北に矢出沢(やでさわ)川を引き込んで防衛線を作り、守備と攻撃いずれにも適した城郭を作りあげています。
三の丸には御殿、蔵屋敷、中屋敷がそれぞれ独立した曲輪を造って、防御力を向上。
藩主の居館は御屋形(おやかた)と呼ばれていました。
本丸には、仙石忠政(せんごく ただまさ)の時代に7つの二重隅櫓が建てられ、櫓門も造っています。
しかし内部には天守はおろか御殿すらなく、ただ侍番所が造られただけでした。
本丸に城の中枢的施設が全くないという極めて珍しい城郭です。
本丸東側の表門にあたる渡櫓門は、平成6年(1994)に再建されました。
両脇の2つの櫓は仙石忠政が建てたものです。
明治年間に上田遊郭に払い下げされていましたが、上田城保存会が買い戻して昭和18年(1943)から24年にかけ改めて移築されました。
西櫓は、上田城の櫓で唯一建築当時と変わらない場所に現存する隅櫓です。
寛永3年頃に、仙石忠政が北櫓・南櫓とともに建てたものです。
3つの櫓は大きさも形もほぼ同じで、破風などの飾りの全くない二重櫓ですね。
先ほど説明したように、現在北櫓と南櫓は東虎口へと移築されています。
本丸には7基の櫓が建てられましたが、3基だけが現存しています。
南櫓などの方角を示す櫓の名前は、現在便宜的に付けられているものです。
当時の名称ではありません。
2つの櫓の下の広場となっているところが築城当時は尼ケ淵と呼ばれたところ、千曲川の分流でした。
真田昌幸が築城の際に自ら石切り場から運び出し、城の柱石として据えたと伝わる高さ2.5m、幅3mの巨石。
本丸東虎口櫓門の右手にあります。
信之は松代に移封するにあたって、父の形見としてこの石を持ち出そうとしました。
しかしどうしても動かせなかったそうですよ。
上田城は築城当時から石垣はあまりなく、土塁と濠を中心に曲輪を囲んでいました。
城郭の規模も大きなものではありませんでしたが、地形をうまく利用して2重、3重の濠を作って守っていたため、徳川の大軍を2度も撃退できました。
戦国の雄・真田氏の知略を伝える城址は、国の史跡に指定されています。
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では真田氏を有名にした、徳川を撃退したお話を。
真田氏時代の上田城は、徳川氏に2回攻撃されています。
天正13年(1585)に徳川家康が真田昌幸に、沼田城を小田原北条氏に明け渡すように命令したのですね。
しかし昌幸は拒絶。
その結果「神川(かんがわ)の合戦」と呼ばれる徳川軍との第1回目戦いが起こります。
7,000名を超える徳川軍が上田城を攻めますが、これをわずか2,000名あまりの真田兵が巧みな奇襲戦で撃退成功。
そして2回目は、関ヶ原の戦いのときです。
3万余の軍勢を引き連れた徳川秀忠軍をわずか2, 500名ほどの城兵で応戦し、結局攻略を諦めさせたばかりか、徳川軍を8日間も上田に足止めにします。
その影響で、秀忠が関ケ原に到着したのは関ケ原の戦いが終わって5日ほど後になってしまいました。
秀忠は父・家康に叱責され面会さえも許されなかったそうですよ。
すごいぞ上田城!!真田氏!!!✨
現在、城址は上田城跡公園となり、本丸には真田親子、仙石・松平両家歴代藩主を合祀した上田神社があります。
藩主居館(御屋形)跡は上田高校となっており、寛政2年(1790)に再建された御屋形表門が上田高校の正門として使用されています。
こんな立派な正門をもつ高校はあまりないでしょうね。(京都府園部高校の正門も立派な園部城の大手門です。)
真田信繁(幸村)は、大坂冬の陣が勃発するまで、和歌山県高野山、九度山での14年間に及ぶ浪人生活を送っています。
兄の助命嘆願を家康が聞き入れてくれたため、命は助かったのですね。
父は浪人生活中に亡くなり、信繁(幸村)自身は出家して好白と名乗っていました。
その後、豊臣秀頼の周囲が浪人を集めて戦いを決意し、信繁にも招待が届きます。
父の旧臣たちを集めて大坂城へ参戦し、凄まじい戦いをみせますが49歳で死亡。
大阪市天王寺区にある幸村終焉の地・安居神社には信繁(幸村)の銅像と「真田幸村戦死之地碑」がありますよ。
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【2泊3日の長野県3城址巡り】
2001年11月9日から2泊3日で、長野県の3城址巡りを楽しみました。
まず初日の9日は、幕末も迫った慶応2年(1866)に築城された龍岡城五稜郭とも呼ばれる龍岡城(「続日本100名城」第129番)に登城。
この城は函館にある五稜郭と同じ星型(稜堡式)の城郭ですが、五稜郭の縮小版のような城郭で規模も小さく、石垣も低く星形も完成していませんでした。
当時は小学校があり、台所櫓だけが遺構として残っていました。
翌10日は上田城。
11日は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」で有名な小諸城(「日本100名城」第28番)を探訪。
小諸城は城郭が城下町より低い位置にあるため、「穴城(あなじろ)」とも言われています。
懐古園の額がかかった三の門からは、その名のとおりに下って城址に入るんですよ。
苔むした石垣が「小諸なる古城のほとり」というイメージがぴったり。
上田城のサイトを発見!ぜひのぞいてみてくださいね。
*上田城詳細
・住所:長野県上田市二の丸
・営業時間:4月~11月 8:30~17:00
・休業日:期間中は毎週水曜日(8月~10月の間無休)
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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行))、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年㋆15日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)他
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