76回目は、長野県の松代城を紹介します。
松代城は、名将・武田信玄が北信濃を支配するために築城した城。
また、甲州流築城の見本と言われた名城でもあります。
別称は海津(かいづ)城、貝津城、待城(まつしろ)、松城(まつしろ)で、「日本100名城」(第26番)に選定されています。
私は2004年9月28日に登城しました。
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甲斐の武田信玄は、天然の要害の地に城を築きます。
川中島平の北を千曲川が蛇行して流れ、東・南・西の三方を山に囲まれた場所ですね。
信玄は、黒田勘兵衛とならぶ有名な軍師・山本勘助に命じて築城。
時期は確かではないのですが、永禄3年(1560)頃までには城が完成したと推定されます。
松代城は翌4年9月にあった4度目の川中島の戦いでは、武田軍の本営となっています。
当時は海津城と呼ばれていました。
天正10年(1582)の武田氏の滅亡により、織田信長の武将・森長可(もり ながよし)が入城。
しかし同年にあった本能寺の変により撤退します。
海津城は上杉景勝のものとなり、須田満親などが城代として城を守っていました。
慶長3年(1598)の上杉氏の会津移封により田丸直昌が城主となり、それまでの土塁を石垣に修築したそうです。
慶長5年には森忠政(ただまさ)が13万7500石の城主となり、城の名前を待城と改名、二の丸、三の丸を築きます。
同8年に忠政は美作国津山城へ加増転封し、家康の六男、松平忠輝(ただてる)が城を領し松城と改称、花井吉成が城代となりました。
しかし忠輝は元和3年(1617)に改易されます。
以後、松平忠昌、酒井忠勝を経て、真田信之(のぶゆき)が、元和8年信州上田城から13万石で移封されました。
真田信之は関ヶ原の戦いで父の昌幸(まさゆき)と弟の幸村(ゆきむら)と決別し、徳川方についた武将ですね。
それ以降約250年間真田氏の居城となります。
正徳元年(1711)に三代目の真田幸道(ゆきみち)のとき、幕命により松代城と改称しました。
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上の絵図は享保2年(1717)に作成したと思われる城図です。
ここでは見やすくするために上下を変えています。
右側が西、上が南です。
城郭の北西を流れる千曲川が自然の外濠。
四角形の本丸の、東南・西南・西北の三隅に二重の隅櫓を建てており、門は三つ開きます。
正門である南側の太鼓門、北側の北不明(きたあかず)門は防御力の強い桝形門です。
本丸の三方を二の丸で囲み、南側には桝形の南門を開いていました。
南門の外には丸馬出。
さらにその南に半円形の三の丸を置いています。
三の丸の東側には桝形の大門がありました。
地図で分かるように、東側と南側にある丸馬出及び三日月堀が甲州流築城術の特徴です。
つまりこれを外から攻めようとすると、正面からは三つの桝形門を突破しないと本丸には入れません。
上の絵図で分かるように、濠と言うより大きな池と言った方がよい大きな水濠に護られている堅固な輪郭式城郭でした。
戦いには強い松代城ですが、実際のところ、城はたびたび水害を受けていたのですね。
これは大変困るので、千曲川を現在の流れに変えています。
明和7年(1770)には洪水の被害から逃れるために、西南の花の丸に御殿を築いて移ります。
しかし弘化4年(1847)の善光寺大地震により城は大破、十分な復旧が出来ないままに明治を迎えました。
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本丸の大手(正面)門である太鼓門(奥)。
本丸にあった三カ所の櫓門の中で、最大規模の門です。
復元された「橋詰門」と呼ばれる高麗門(1枚目の写真手前)と続塀と奥の太鼓門で桝形を造っていますよ。
内堀に架かる前橋を戦いの前に落としておけば、より防御力が強くなります。
平成16年に太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元されました。
野面積みで積まれた戌亥櫓台の石垣は、城内に現存する石垣の中でも最も高く、そして最も古いもの。
戦国時代末期に築かれたものです。
この隅櫓は天守に相当するもので、戌亥御櫓と呼ばれていました。
平成16年に復元された本丸の搦手門(裏門)である北不明(きたあかず)門です。
高麗門、櫓門と石垣、袖塀が復元されています。
ここも防御力の高い桝形門です。
18世紀前半までは千曲川の河川敷にあったことから、水ノ手御門とも呼ばれていました。
本丸は石垣で囲まれていますが、二の丸は基本的には土塁で囲まれていました。
三カ所の櫓門のほかに、土塁にトンネルのように周囲を石垣で囲んだ埋門(うずみもん)と呼ばれる出入口がありました。
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松代城の近くには旧真田邸、藩校であった文武学校、旧白井家表門などが現存しています。
文武学校の敷地内には江戸時代の建物がほぼ完全に残っていて、とても珍しい遺構例ですよ。
また佐久間象山が電信実験を行ったという鐘楼などもあり、今なお城下町の面影が残っています。
松代城や御殿関係の資料や松代城復元模型などが展示されている真田宝物館や象山神社などもぜひ訪れてください。
文久3年(1863)に8代藩主の未亡人・貞子(ていこ)の隠居所として建てられたもの。
旧大名屋敷の様式を残している貴重な遺構です。
敷地内には、蔵、長屋、門、番所、庭園などがほぼ完全な形で残っています。
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【1泊2日の長野県3城址巡り】
2004年9月27日から1泊2日で長野県の3城址を探訪しました。
27日はまず岩村田城址に行きましたが、残念なことに、そこには城跡を記した石碑しかありませんでした。
続いて飯山城址へ。
飯山城址は花の名所として親しまれているようですが、本丸虎口の石垣と二重の櫓門が遺構として残っていました。
大手桝形の櫓門などが復元されたので楽しみにしていました。
松代城の探訪と城下町の観光を楽しんだあと、地図に載っていた舞鶴(象)山へ。
終戦間際に山の地下に掘られた地下壕の跡を見るためです。
ヘルメットをかぶり地下壕の中を歩いて見学出来ました。
壕内の堀跡もそのまま残っていて、歩きにくいのを我慢して奥に行きましたが、そんなに大きな壕ではありませんでした。
完成する前に終戦となり、そのまま放置されていたそうです。
そこは、戦争末期東京から大本営や政府を移す目的のために極秘で掘っていた地下壕です。
近年まで一般にはあまり知られていなっかたようですが、平和を伝える戦争遺跡「松代象山地下壕」として一部が公開されています。
沖縄の那覇市南部にある海軍の地下司令部壕は結構広い地下壕だったのですが、像山のそれは小さなものでした。
終戦間際に慌てて掘り始めたのでしょうね。
こんなところに大本営を造るつもりだったのかと驚きました。
*松代城詳細
・アクセス:JR長野駅から松代行きバス約30分松代駅下車+徒歩5分
・営業時間:9:00~17:00
・休業日:無休
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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、「松代城パンフレット」他
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