日本全国にあるお城。
見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」その5です!
今回は天守建築のはじまりの謎について書いていきますね。
お城の雑学1・2・3・4はこちらをどうぞ。
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城郭に天守と呼ばれる建物がいつから、そして誰によって建てられはじめたのかを考えてみましょう。
ちなみにトップ写真に載せた丸岡城は、現存天守のなかで最古の天守と言われていましたが、実際には確定されていません。
天正7年(1579)の安土城の築城で、日本に初めて「天守」(安土城の場合「天主」と表記)が建てられたということになっています。
しかしはたして本当なのでしょうか?
この記事は、日本城郭史学会代表の西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)氏の「天守閣の七不思議」、そしてテレビで有名な静岡大学名誉教授の小和田哲男(おわだ てつお)氏の「NHK カルチャーラジオ 歴史再発見 城と女と武将たち」などを参考にしながら書いていきます。
天守建築のはじまりの謎です。
まずは結論から
もしも安土城の天主建築以前に、天守・殿守(てんしゅ)などと呼ばれる重層の城郭建築物が存在していたとしても、織田信長の安土城をもって始めとすると言っても間違いではないでしょう。
それは権威の象徴としての、近世城郭のおける天守建築の観点からです。
それほど信長の安土城天主は、規模においても豪華さにおいても類を見ない城郭建築物でした。
素晴らしい天守が各地にできていったのです。
天守建築のはじまり諸説紹介
では、天守建築のはじまりはいつだったのか、いろいろな話をみていきましょう。
桃山文化の頂点に完成をみた天守建築について、その発想者、実際の創造者については、現在までいろいろな見解が出されています。
・『細川両家記』による最初の天守建築
『細川両家記(ほそかわりょうけき)』という史料によると、最初の天守は永正17年(1520)の摂津伊丹城です。
しかし近年の研究では、その史料には「しゅてん」と書かれていることが判明。
これは天守ではなく主殿、本丸の御殿のような建物だということで、小和田哲男氏は「この説は否定されている」と書いています。
・江戸時代の戦記物『遺老物語』による最初の天守建築
江戸時代の戦記物に見える天守のはじまりは、元禄16年(1703)の『遺老物語(いろうものがたり)』巻之八「永禄以来出来初めの条」にあります。
それによると、永禄元年(1558)に尾張国で、織田一族によって楽田城(がくでんじょう)天守が築かれました。
この天守は矢倉造りで中に八畳敷きの二階座敷がこしらえられており、八幡大菩薩や愛宕山権現を勧請し奉っていました。
それが天守のはじまりであると書かれていたそうですよ。
しかし、この説も今日では否定されています。
その後の研究で、単に「櫓(やぐら)」にすぎない建物であるとわかったのですね。
・江戸時代の覚書『愚子見記』による最初の天守建築
江戸幕府の大工頭、中井家配下の棟梁・今奥出羽(平正隆)の覚書である『愚子見記』によると、「殿守」の起こりは三河国の額田(ぬかだ)城の詰めの城にあった高櫓に由来しています。
籠城戦で高櫓に立て籠もったとき「其之大将詰ノ城ノ物見ヲ高櫓ニ取リ籠リ運ヲ披(ひら)ク、故ニ殿ヲ守ルト書キ、是ヨリ殿守始ルトイヘルモ、城主ノ名未ダ知ラズ」と書かれているとのことです。
しかし西ヶ谷氏によると、額田城の城主・時代などは不明だとあるうえに楽田と額田(がくでん)は発音が共通することから、本来は同一の城の伝承だったとも考えられます。
・『大和軍記』による最初の天守建築
『大和軍記』には「松永討負、天守ヘ上り切腹被仕候」とあるそうですよ。
天守で切腹したと書いてあることから、このときすでに信貴山城には天守があったのでしょう。
松永久秀は信貴山城とともに、近世城郭の始まりといえる多聞城も築城している人物。
そのため久秀による天守建築は充分考えられるそうです。
『多聞院日記』の中、天正5年6月の記述には「多聞山四階ヤクラ壊了(おわんぬ)、ナラ中人夫出、」という記述があることから、多聞城には天守に相当する四階櫓があったことがわかる、そう西ヶ谷氏は言ってますね。
この四階櫓が成立したのは、安土城の天主が完成する前の永禄3年(1560)のことです。
織田信長の以前・以後の天守建築
信長の初めての天守建築は、「天下布武」への第一歩となった岐阜城だったようです。
小和田氏は、建築史家の宮上茂隆さんが、岐阜城に信長が造った四階御殿が天守の初めではないかと述べたと紹介。
彼はまた、京都の天龍寺の住職策彦周良が「天主」という文字を選んだこともあわせて紹介していますよ。
永禄12年に岐阜城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で、山麓の千畳敷に三重の御殿、山上に重層の建物があったと記しています。
以上の他に、安土城以前の天守の存在を資料でみてみると次のものがありました。
・『元亀2年記』には信長が築城した二条城天守
・『兼見卿記』には元亀3年(1572)に近江国坂本城の「天主」、元亀4年(天正元年 1573)に摂津国高槻城「天主」、天正2年(1574)には山城国勝龍寺城の「殿守」
私は勝龍寺城を探訪したさい、展示しているその史料を実際に見てきました。
「谷井文書」の中では天正2年10月、織田信長が徳川家康にあてた印判状に「伊丹の事、外構悉く討ち果たし、天守計(ばかり)攻め詰候」と報じています。
これにより、天正2年には荒木村重の伊丹(有岡)城に天守が存在したことがわかりますよね。
しかも信長自身が「天守」と言ってますよ。
これは西ヶ谷氏によると、安土城以前に「てんしゅ」と呼ばれる城郭建築物が、近畿圏内の信長ゆかりの武将たちの城にかなり多く存在していた状況を物語っているということだそうです。
以上、西ヶ谷恭弘氏の「天守閣の七不思議」などをもとに、「天守」建築のはじめについてのあれこれを略述しました。
皆さんもさまざまな城址を訪れるさい、気になったことは自分でも考えてみてくださいね。
違う目で城址を観るようにもなり、とても面白いですよ。
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【参考文献】
西ヶ谷恭弘「天守閣の七不思議」(「歴史と旅」臨時増刊号 第19巻第11号 秋田書店 平成4年7月10日発行 所収)、小和田哲男「NHKカルチャーラジ歴史再発見 城と女と武将たち」(NHK出版 2011年4月1日発行)、三浦正幸監修『【決定版】図説・城造りのすべて』(学習研究社 2006年12月1日第1刷発行)、井上宗和『日本の城の基礎知識』(雄山閣 平成3年7月5日再版)、『日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害台場事典』(東京棠出版 2002年7月15日初版発行)他
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