日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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かるーいお城の雑学(その4)天守とは? 天守建築の起源や呼び名のルーツ

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世界遺産・国宝姫路城天守   by:photo-ac

日本全国にあるお城。

見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」その4です!

今回は天守とは?  天守の謎について書いていきますね。

お城の雑学1・2・3はこちらをどうぞ。

今日では「天守」を「天守閣」と呼称したり記述したりしていることが多いですね。

後で述べますが、これは楼閣建築から天守が生まれたという考えのもとで造られた造語(俗称)で、明治以降に使われるようになった言葉です。

文献や城絵図には、天主・天守・殿主・殿守などがあり、その読み方はいずれも「てんしゅ」。

学術用語としては「天守」が使われており、表記も「天守」が正しいということを覚えておいてくださいね。

 

城と言えば天守を思い浮かべ、天守のない城郭は城ではないと思っているかたが多いでしょう。

トップ写真は有名な姫路城の天守

石垣で築かれたほぼ四角形の天守曲輪に、大天守・西小天守・乾小天守・東小天守が四隅に建てられ、それを渡櫓が結んだ連立式天守です。

五重の大天守には比翼入母屋破風と大きな入母屋破風、軒唐破風、そして唐破風の出格子窓等がおかれています。

三重の小天守にも入母屋破風と軒唐破風があり、二重の渡櫓まですべての部分が白漆喰総塗籠となっていて、白鷺(はくろ)城という名前のとおりの美しい天守ですよね。

姫路城の天守は、「天守の究極の姿」と言えます。

 

では、城郭にはなぜ天守があるのでしょうか?

ここでは天守のはじめや天守とは何か、天守建築の起源や呼び名のルーツを紹介します。

 

・最初の天守織田信長安土城?  天守が城郭にあるワケ

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安土城天主台石垣 by:photo-ac

天守の起源については後述のとおり諸説があり、今でもはっきりした結論は出ていません。

一般的に言われているのは、織田信長天正7年(1579)に近江安土山の山上に築城した安土城天主(安土城での表記)が、近世の天守建築の初めであるということ。

城郭に誕生した重層の建築物を、「天守」と言うのですね。

信長が「天下布武」、天下統一のシンボルとして築いた豪華絢爛の安土城天主は、織田政権の誕生と天下統一事業の進展を戦国大名や民衆に知らしめ、戦国時代の終わりを告げるものでした。

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岐阜駅前の金ぴかの織田信長像  by:photo-ac

また、豊臣秀吉大坂城聚楽第名護屋城伏見城を築き、権力の象徴としての巨大で豪華な天守をつぎつぎと建造しました。

城下のどこからも見ることの出来る巨大な建築物

城主の力を誇示し、領内の政治、経済、文化の中心である城郭のシンボルとしての天守が建造されるようになったのです

17世紀初期にかけて全国の城郭に、つぎつぎと天守が築かれました。

その数500余りと言われています。

 

天守は城のなかでは一番高くて立派な建築物ですが、天守を日常的に生活や政りごとの場所として使っていたのは、おそらく信長と秀吉ぐらいではないでしょうか。

家康以後は、天守は城のシンボル、権威の象徴でしかなかったと思います。

 

*城主が家臣を慌てさせた話

確か岡山藩での話だったと思いますが、こんな面白い話を読みました。

舞台は江戸時代の中頃のこと。

通常、藩主の子供は生まれてからずっと、人質として母親とともに江戸屋敷で育ちます。

その子が藩主になって初めて自分の国に帰ったとき、天守に登って城下を見たいと言い出したそうです。

家臣は慌てました。

平和な時代が続いたその頃、天守はただ建っているだけで使われることがなく、掃除はおろかなんの手入れもしていなかったのですね。

天守の中は埃まみれで荒廃していました。

その天守にお殿様が上りたいと言ったものですから、家臣たちは大慌てで掃除、修理をしたそうです。

天守が既に無用の長物となっていたということがよくわかるお話でした。

江戸時代に天守が落雷などで焼失しても再建しなかったのは、徳川幕府に遠慮したからということばかりでなく、多額のお金を使って再建することは意味がないし、馬鹿らしかったからとも言えます。

 

徳川家でもやはり、天守にはお金がかけられませんでした。

三代将軍家光の頃、江戸城天守が焼け落ちてしまいます。

再建しようとした家光に、異母弟の会津藩主の保科正之(ほしな まさゆき)が

「天下泰平の世に、天守は無用の長物」

と激しく反対したことは有名な話ですね。

 

天守建築の起源やルーツは4説!

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広島城 天守 by:photo-ac

そもそも天守とは何か、そしてなぜ城郭に天守が建てられたのでしょうか。

有名な城郭研究者で、最近では城郭に関するテレビ番組にも多く出演している日本城郭史学会代表の西ヶ谷恭弘(にしがや やすひろ)氏の「天守閣の七不思議」(「歴史と旅」臨時増刊号 第19巻第11号 秋田書店 平成4年7月10日発行 所収)を参考にしながら書いていきます。

天守建築の起源・ルーツは次の4つ。

・高櫓や大矢蔵の発達

・井楼の発達

・楼閣の発達

・主殿建築の発達

順番にみていきましょう。

 

A)高櫓・大矢蔵の発達説

天守は天主櫓、天守矢倉と記されるようにそもそもは櫓でした。

つまり櫓建築が発達したものが天守という説です。

櫓は中世での表記は矢蔵や矢倉で、『源平盛衰記』や『太平記』には大矢蔵・高櫓が城の記述にあります。

つまり櫓のひとつが大きくなって象徴的建物となり、望楼性を重視した構造になったという考え方ですね。

 

B)井楼の発達説

井楼(せいろう)とは西楼とも書く、組み上げ式の展望を目的とした櫓建築の一種。

井桁状に柱材を組み重ね、最上部に横板を渡し、屋根を架けたものです。

近世の火の見櫓がこれにあたります。

天守あげるという用語法はこの井楼に由来しており、天守の性格上のルーツと充分に考えられるでしょう。

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茨城県逆井城の櫓   by:photo-ac

 

C)楼閣の発達説 

天守は楼閣が高層化した外形。

つまり金閣銀閣に代表される楼閣建築の望楼機能が発達したのではないか、という説です。

天守に華頭窓が付けられているのは、その影響でしょうか。

また一般に「天守閣」と言われているのもここからきているのでしょう。

太田道灌江戸城静勝軒が、重層の楼閣として有名ですね。

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金閣寺   by:photo-ac

 

D)主殿建築の発達説

鎌倉時代末期頃から寝殿造りが簡略化され、武家の屋敷のなかのもっとも主要な建物(主殿)となりました。

主殿は15世紀末から16世紀にかけて武家住宅の中心となり、新様式の床・棚・書院を伴ってやがて書院造りに変化。

主殿の一部に小型の望楼をのせて展望性を求め、また煙出しにみる一部重層の屋根架け構造が発達し、これが主殿の中心となったことから殿といった、という説です。

初期の天守建築は、いずれも内部に長押(なげし)・書院・床をともない、主殿建築の上に望楼をのせた構造でした。

そのため建築史の分野からは、主殿発達説が有力です。

 

天守の呼び名のルーツ4説

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松江城天守 by:photo-ac

次は、「天守」という呼び名のルーツです。

 

天守建築は、前述したように資料や城絵図には殿主・殿守・天主・天守などと書かれており、天主櫓・天守矢倉と「やぐら」をともなう用例も多いようです。

では、どうして城郭での象徴としての建築物を天守・天主(てんしゅ)と呼んだのでしょうか? 

これも昔から諸説ありますが、次の4つを紹介します。

キリスト教伝来説

・仏教宇宙世界の中心説

神道思想の由来説

・主殿建築からの起因説

 

1)キリスト教伝来説

天守建築流行の初めとなった安土城築城の前後に、キリスト教布教が近畿圏内で盛んになりました。

安土城の大櫓の最上階に切支丹の神・天主を祀ったことから大櫓を天主といい、天主教(キリスト教)が禁止になった後に「天守」の文字が一般化したという説です。

しかしこれは「天主」の文字にこじつけた説であると西ヶ谷氏は言っています。

 

2)仏教宇宙世界の中心説

仏教では、この世界は須弥山(しゅみせん)と呼ぶ最も高い山が中心で、ここに世界を支配する梵天帝(帝釈天)が善見城(ぜんけんじょう)という城を作り、そこにおられたと言われています。

この善見城こそ天の主の居城であり、曼荼羅にみる世界の中心。

つまり、城の中心となる建物にこの世界観を照らして天守と呼ぶようになったということですね。

 

3)神道思想の由来説

神道は日本の宗教で、具体的な教えや開祖もいません。

自然と神とは一体であり、神と人を結ぶために祭祀があります。

祭祀を行う場所が神社で聖域とされました。

そして天守の発生は、武の神である多聞(毘沙門)を城中に祀り、護としたという説から来ています。

天と守が合わさったのですね。

天守内に神棚などがあることから、幕末から第二次世界大戦までこの説の支持が多かったようです。

 

4)主殿建築からの起因説

前に述べたように、主殿の中心に望楼がつき、その中心部が殿主となったからだという説ですね。

建築学からはこちらが有力です。

 

・謎が多いからこそ惹かれる?  天守について知ろう!

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松本城天守 by:photo-ac

城跡にいけば再建された天守天守跡があり、見学に訪れる私たちの好奇心をくすぐりますよね。

しかしせっかく訪れるのですから、知識を得ることでもっと城址・城跡が楽しめるはず。

天守の起源や名前の由来は諸説あります。

さまざまな見方から説が誕生しているので、一通り読んでから自分ならどの説を支持するか、考えてみるのも良いのではないでしょうか。

自分なりの新しい説を作っても楽しいかもしれませんね。

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【参考文献】

西ヶ谷恭弘「天守閣の七不思議」(「歴史と旅」臨時増刊号 第19巻第11号 秋田書店 平成4年7月10日発行 所収)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)他

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