日本全国にあるお城。
見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
- *天守建築の起源・ルーツのおさらい
- 望楼型天守1.松江城天守(島根県)
- 望楼型天守2.高知城天守(高知県)
- 望楼型天守3.岡山城天守(岡山県)
- 望楼型天守4.福知山城天守(兵庫県)
- 望楼型天守5.長浜城天守(滋賀県)
- 望楼型天守6.犬山城天守(愛知県)
*天守建築の起源・ルーツのおさらい
「かるーいお城の雑学(その4)天守の謎をさぐる」では、天守建築の起源・ルーツについて考えてみました。
天守の起源については、以下のように諸説があり、はっきりと確定されてはおりません。
しかし、近世城郭の天守初形の基本となったのは、織田信長が造った安土城「天主」であるといっても間違いではないと思います。
繰り返しになりますが、簡単に説明します。
A)高櫓・大矢蔵の発達説
天守は、櫓建築が発達したもの、櫓のひとつが大きくなって象徴的建物となり、望楼性を重視した構造になったことによるという考え方です。
B)井楼(せいろう)の発達説
井楼は、組み上げ式の展望を目的とした櫓建築の一種で、井桁状に柱材を組み重ね、最上部に横板を渡し、屋根を架けたものです。近世の火の見櫓がこれですね。
C)楼閣の発達説
天守は楼閣が高層化した外形であるため、金閣や銀閣に代表される楼閣建築の望楼機能が発達したという説です。
D)主殿建築の発達説
寝殿造りが簡略化され、武家の屋敷のなかのもっとも主要な建物(主殿)となりました。主殿の一部に小型の望楼をのせて展望性を求め、また煙出しにみる一部重層の屋根架け構造が発達し、これが主殿の中心となったという説です。
さて、天守の形式には大きく分けて望楼型天守と層塔型天守があります。
一般的にいって、望楼型は古い形式。
そして、層塔型は関ヶ原の戦いのあと生まれた新しい形式の天守で、築城の名手藤堂高虎が考案したものだといわれています。
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今回は、望楼型天守の紹介です。
望楼型天守の説明にぴったりの建築物が、上の写真の宮崎県綾城(あやじょう)で
すね。
綾城は、元弘年間(1331~1334)に足利尊氏の家臣であった細川氏が綾に山城を構えたのが始まりとされています。
昭和60年(1985)に、日本城郭協会の考察に基づいて戦国初期の城楼建造物として造られました。
二重の入母屋造りの大屋根に小さな望楼部を載せた形です。
望楼型天守は、この綾城のように、入母屋造りの大きな屋根をもつ一重か二重の建物の上に、二重か三重の建物(望楼)の載せた形式のものをいいます。
天守の最上階を物見(ものみ 望楼)と呼ぶのでこの名前になっているのですね。
では、以下代表的な望楼型の天守を紹介します。
望楼型天守1.松江城天守(島根県)
松江城は、すでにご承知のことと思いますが、一番新しい国宝の天守です。
加藤清正と並び称される築城の名手・堀尾吉晴が、慶長12年(1607)に築城しました。
外からはっきりとは見えませんが、板張り部分に石落としや狭間が設けられている大変実践的な天守です。
全面板張りで同じ大きさの二重の大入母屋造りの建物の上に、三、四、五重目の望楼部が載る、桃山初期天守の特徴を持っています。
入口となっている付櫓をもつ五重五階地下一階複合式で、見た目は古武士のようなどっしりした姿だと思いませんか?
望楼型天守2.高知城天守(高知県)
高知城は、関ヶ原の戦いの後、掛川から移封してきた山内一豊(やまうち かつとよ)が慶長6年(1601)に築城した平山城です。
天守や天守に接続している本丸御殿(懐徳館)、多聞櫓、黒鉄門など本丸のすべての建造物が残っているのは、日本で高知城だけ。
二重の入母屋造りの大きな建物に、二重の望楼部を載せた古式ゆかしい天守ですね。
二重目に大きな入母屋破風と千鳥破風(正面)、三重目に軒唐破風、最上階に廻高欄が置かれています。
現在の天守は、享保12年(1727)の大火で他の建物とともに焼失しましたが、延享4年(1747)に古い形のまま再建されたもので、旧国宝天守でした。
日本100名城に選定されています。
望楼型天守3.岡山城天守(岡山県)
白亜に輝く白鷺(はくろ)城として有名な姫路城に対し、烏(う)城と呼ばれる岡山城は真っ黒な外見です。
黒漆を塗った下見板張りの壁面に格子窓の白が映え、どっしりとした姿で殿守(てんしゅ)丸に建っています。
鎧をまとった戦国武将を思わせると言われていますよ。
岡山城は昭和になっても旧国宝として存続していましたが、広島城や福山城、名古屋城とともに、昭和20年の空襲で焼失しました。
現在の天守は、昭和41年(1966)に外観のみ復元された天守です。
天守は底面が不等辺五角形の一重めと二重がほぼ同じ大きさの大入母屋の上に、方形の楼閣を載せた前期望楼型で、五重六階(再建時に地階新設)の複雑な形状になっています。
天守に入るのにも直接は入れません。
二重二階の付櫓である塩櫓(左側)の一階から二階に一度登り、天守一階に下りて入る構造の複合式天守です。
天守の石垣にある現在の入口は、天守再建時に地階を新設した際につくられたもので、築城当時はありませんでした。
日本100名城に選定されています。
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望楼型天守4.福知山城天守(兵庫県)
天正7年(1579)に丹波のほぼ全域を攻略した明智光秀は、この地を丹波、但馬、丹後を押さえる要衝として重要視。
それまでの横山城を近世城郭へと大改修し、名前も「福智山城」と改めます。
天正10年(1582)に明智光秀が敗死したあと、何人か城主が交代し、寛文9年(1669)には常陸土浦城主の朽木(くつき)氏が32,000石で入部しました。
朽木氏4代の稙治(たねはる)のときに、名を「福知山」と改めたと言われています。
野面積みの天守台の上に一重と二重が同規模の二重の大入母屋に、小さな望楼を載せた三重四階の望楼型連結式天守ですね。
天守は1階、2階だけを下見板張りで覆い、その上は白漆喰塗です。
飾り破風などはなく、武者窓と鉄砲狭間がわずかにあるだけの武骨な天守ですよね。
続日本100名城に選定されています。
望楼型天守5.長浜城天守(滋賀県)
長浜城は、安土桃山時代の天正3年(1575)に羽柴(豊臣)秀吉が琵琶湖北東岸の今浜に築いた城。
念願かなって「一国一城」の城主として初めて築いた城なので、秀吉にとって思い出深い居城です。
秀吉が築城した天守は資料などがなく明らかではありませんが、三重の天守と推定されています。
現在の天守は、昭和58年(1983)に東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の設計指導により再興され、市立長浜城歴史博物館として開館しました。
「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の寄付と熱望があったため、築かれた天守の外観は天正期の天守の姿を想定して建てられました。
野面積みの天守台の上に、三重五階の望楼型で多聞櫓が付いた複合式天守がのっています。
二重の入母屋造りの大屋根の上に、唐破風を持つ望楼を載せた桃山風です。
一重目に比翼入母屋破風があり、最上階にはそれぞれの面に二つの華頭窓が作られて高欄が付けられています。
復興された天守は白漆喰総塗籠の「白い天守」となっていますが、おそらく当時は下見板張りの「黒い城」ではなかったでしょうか。
望楼型天守6.犬山城天守(愛知県)
犬山城は、かつて全国でも珍しい個人の持ち物としての国宝天守でした。
所有していたのは江戸時代の尾張藩付家老(※つけがろう)成瀬正成(なるせ まさなり)氏の子孫です。
しかし、平成16年(2004)に財団法人に移管され、現在は公益財団法人犬山城白帝文庫(理事長成瀬淳子氏)のものとなっています。
野面積みの天守台の上に、二重の入母屋造りの屋根、その上に望楼を載せた三重四階(石垣の中二階付)の古式豊かな望楼型天守です。
最上階の扉の両側に華頭窓がありますが、これは実用のもではなく単なる装飾ですね。
一重の腰までが下見板張黒漆喰塗、それより上は白漆喰塗で塗られています。
北西隅と正面右側に付櫓を出っ張らせて建てている、珍しい形の複合式天守(パンフレットでは独立式と記されています)です。
天守台にある入り口の防御(横矢掛かり)の為に置かれているのでしょう。
※付家老とは、御三家が将軍に反抗して幕府の体制を揺るがすことを恐れ、目付け役として将軍が自らの側近を派遣した者で、成瀬氏は藩主ではありませんが、犬山城35,000石を与えられました。
尾張藩の家老ですが、江戸城での詰所と定席をもつという一国の大名に準じた家老です。
【天守の用語】
◎現存天守:江戸時代に建造され、修理などを経て今も残る天守。12城あります。国宝 天守 5つ、重要文化財天守 7つ。
◎復元天守:規模・外観ともに旧状のとおり設計され、再建されている天守。コンクリ ート造りでも木造でも、実在した外観の旧形である再建天守をいう。
◎復興天守:再築された建物が絵図・古絵図・資料等で確認できるが、旧状の正確な数値が不明な天守を想像で再築した天守。
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【参考文献】
日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、平井 聖監修『5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、他