日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第126回 高岡城

高岡古城公園   by:photo-ac

第126回目は、富山県にある高岡城です。

高岡城は、追放された高山右近が縄張りをした城として知られている平城。

建物の遺構はありませんが、広大な水濠と曲輪がほぼ完全な形で残っていて、その保存率は日本一といわれています。

富山県で唯一の「日本100名城」では第33番に選定済みですよ。国の史跡にも指定されています。

高岡城へは、2001年8月5日に登城しました。

 

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前田利長銅像    by:photo-ac

高岡の地は、古くは関野ケ原(せきのがはら)とよばれた場所で、金沢と富山の間にあります。

北陸随一の穀倉地帯である砺波(となみ)を控え、北側が沼地で西側に小矢部川、千保川、東側に庄川などが集まる船運の中心地でした。

加賀前田家100万石は、加賀、能登越中の三国を合わせた所領で、高岡はその前田領内の中央部にあたります。

加賀藩主2代目の前田利長(としなが 利家の長男)は、わずか44歳で家督を13歳の弟の利常(としつね)に譲ります。

それは父の利家が秀吉の五大老だったことから、家康に言いがかりをつけられないようにといった理由でした。

また利常に2代将軍徳川秀忠の9歳娘と婚姻させ、自分は富山城に移って院政を敷きます。

しかし残念なことに、城下からの出火により富山城は全焼してしまいました。

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紅葉が水面に写る水濠と東屋   by:photo-ac

家康に新たな築城の許可を得て、利長が隠居城として慶長14年(1609)に築いたのが高岡城です。

秀吉のキリシタン禁令での改宗を拒否し、明石6万石の大名から除封されて浪人となっていたキリシタン大名高山右近は、その当時、加賀前田家に身を寄せていました。

そのつながりがあり、高岡城の縄張りは高山右近が担当しています。

しかし、最近の研究では利長自らが縄張りをした可能性も指摘されているようです。

その後、右近は慶長19年に家康の命によってマニラに追放さて、現地で死亡しています。

西側に本丸と二の丸、東側に4つの曲輪が二列に並び、それを水濠が囲む形の独特な配置で、梯格式縄張りでした。

高岡城は隠居城とはいえ、有事に備えた実用的な城郭で、富山城を凌ぐ堅固な城。

本丸の西北隅に天守らしいものが築かれたようですが、はっきりしていません。

利長は、築城とともに京都にならった町割りをし、富山、守山、木船の三つの城下町から家臣430戸、町民630戸を移住させて城下町づくりをしました。

名前も関野から高岡に改名。

利長は、高岡城内で慶長19年に、53歳で没しました。

高岡市内では、当時の繁栄ぶりを伝える蔵造りの町並みを、今も見られますよ。

二の丸から本丸へと向かう土橋の石垣    by:photo-ac

高岡城は、築城してわずか6年後の、利長が亡くなった翌年の元和元年(1615)に出た「一国一城令」により廃城となりました。

建造物はすべて撤去されましたが、利長の弟である前田利常は、ひそかに曲輪や水濠は原型のまま保存し、その姿のまま明治を迎えました。利常は、堀を埋められた大坂城が簡単に落城したことを知っていて、高岡城址を温存したとも伝わっています。

利常は賢明な藩主として有名です。

加賀100万石を潰そうと狙っている徳川幕府に対して、江戸では鼻毛を伸ばしたまま将軍に謁見したり、わざと奇行を演じて油断させていたといわれています。

高岡城址は、江戸時代加賀藩の高岡奉行の管理のもとに置かれ、米蔵や火薬庫などが設けられていました。

現在、広大な水濠と曲輪の形はほぼ完全に残り、西内堀の南側と土橋の両側には石垣が残っています。

利常のお陰ですね。

水濠    by:photo-ac

高岡城の曲輪は広い水濠に囲まれていて、水濠は高岡古城公園の3割の面積を占めています。

高岡城址は明治になって高岡古城公園となり、ソメイヨシノや八重桜など23種2,700本の桜が爛漫と咲き誇ることで有名です。

日本さくら名所100選にも選ばれており、高岡さくらまつりではぼんぼりが点灯され、夜桜を楽しめますよ。

また、公園内には博物館や図書館、動物園などの文化施設や娯楽施設などがあり、四季を通じて市民に親しまれ、愛されている憩いの場となっています。

濠に垂れる桜     by:photo-ac

 

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利常は、利長の菩提寺として曹洞宗瑞龍寺を建立しています。

中国の寺院建築を模して建立され、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、四周を回廊で結んでいる壮大な寺で、豪壮な山門や仏殿、法堂は国宝に指定されていますよ。

瑞龍寺仏殿(中央)と山門(右)    by:photo-ac

瑞龍寺法堂   by:photo-ac

 

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【22年前の北陸6城巡りの旅】

2001年8月5日から1泊2日で北陸の6城址の探訪を楽しみました。

最早22年も前の話なのですね、びっくりです。

探訪した城跡には、金沢城と福井城を除いてはほとんど遺構といったものがありませんでした。

しかし北陸での夏の休暇を金沢で楽しんだあと、帰阪途中で城跡巡りをしたものです。


5日
まず富山県高岡城を探訪。

上に記したとおり、城址が市民の憩いの場となっていました。

高岡城を探訪したあと、金沢城日本100名城)を探訪しています。

石川門、二重櫓(左)、一ノ門、右側二重櫓門    by:photo-ac

私が行ったときは菱櫓や五十軒長屋などの復元が完成していました。

しかしまだ一般公開されておらず、とても残念な思いをしたものです。

金沢の大学でフランス文学を教えている懐かしい友人と、金沢の夜を充分楽しみました。

そして翌年の1月31日に、改めて復元された菱櫓や五十軒長屋、橋爪門続櫓を見に金沢城を再訪しました。

 

6日

この日はまず、小松城に探訪しました。

3代藩主だった前田利常が隠居城として、寛永16年(1639)に改修した平城です。

本丸御殿や二重三階建ての天守も建立されました。

天守台が遺構として残っていましたよ。

本丸と二の丸跡は高校、三の丸跡は芦城公園となっていて、かろうじて石垣の一部が残っていたのを覚えています。

切込接ぎの小松城天守台   by:photo-ac

続いて大聖寺城(大聖寺陣屋)に。

もともとは前田氏の持ち城でしたが、一国一城令で廃城になったところです。

その後、3代藩主だった前田利常の3男・前田利治が、寛永16年(1639)に古城の麓に居館(陣屋)を築きました。

大聖寺陣屋跡は現在小学校敷地と江沼神社境内となっていますが、重要文化財に指定されている長流亭と広大な庭園が現存していました。

それから福井に移動して、福井駅近くの北ノ庄城、福井城を探訪し、帰阪しました。

北の庄城址・柴田公園   by:photo-ac

 福井城    by:photo-ac

 

高岡城詳細

・住所:富山県高岡市古城1-6

・アクセス:あいの風とやま鉄道/JR城端線/JR氷見線高岡駅から大手口(市立博物館入口)まで徒歩10分

・営業時間:24時間

・休業日:無休

 

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【参考文献】
平井 聖監修『城 3 甲信越 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城』(学研プラス 2018年5月7日 第6刷発行)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、他

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