日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第113回 八代城

八代城 欄干橋    by:photo-ac

113回目ですね。

今回は、熊本県の八代城といきましょう!

八代(やつしろ)城は、八代平野の球磨(くま)川河口に築かれた平城です。

雄藩である薩摩藩・島津氏の押さえの拠点の城として重視されている城で、加藤清正の子である忠広(ただひろ)が築城しました。

八代城の欄干橋は本丸の東側にある入口です。

築城当時ここには木橋が架けられており、橋を渡ると高麗門と頬当(ほほあて)御門と呼ばれる櫓門があり、内桝形になっていて、防御を固めていました。

「続日本100名城」(第190番)に選定されています。

また、「八代城跡群 古麓(ふるふもと)城跡 麦島城跡 八代城跡」として国指定史跡にも指定されていますよ。

別称は、松江城、白鷺城、不知火(しらぬい)城。

私は、2002年6月7日に登城しています。

 

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天守台跡と石垣 隅部が立派な算木積み    by:photo-ac

八代城の付近に、南北朝時代の名和氏が築いた古麓城がありました。

天正15年(1587)に九州を支配下に治めた羽柴秀吉は、肥後の南半分を小西行長(ゆきなが)に与えます。

小西行長宇土城に入りますが、翌年、不知火(しらぬい)湾に注ぐ球磨川の河口の三角州に、宇土城の支城として麦島(むぎしま)城を築きました。

行長は関ヶ原の戦いで敗れ、麦島城は熊本城に入った加藤清正のものとなります。

嫡男の忠広が引き継ぎ、慶長17年(1612)に城代として、重臣の加藤正方(まさかた)を入城させます。

しかし、元和5年(1619)の大地震により麦島城は倒壊してしまいました。あらぁ!

打込接ぎの本丸北辺石垣    by:photo-ac

加藤忠広は、幕府の許可を取って球磨川の北岸の松江に新しく城地を定め築城を開始。

同8年に出来上がった城が八代城です。

城域は、南側が球磨川に面していました。

そして東は竜峰、八丁の山々。

北側には湿地帯や水田が広がり、西は不知火湾に近いところです。

八代城は平城ですが、要害堅固な城郭でした。

元和元年の「一国一城令」の4年後に、藩内に新しく2つ目の城の築城を徳川幕府に許可された例は、全国でも珍しいことです。

これは、琉球を通しての貿易で莫大な利益を得て強大な力を持つ薩摩への押さえとして、八代城が徳川幕府に位置づけられたから。

さらに、不知火海制海権の確保のための城郭としての位置づけもあります。

その後、寛永9年(1632)に加藤忠広が突然改易され、熊本城に小倉城から細川忠利(ただとし)が入城してきます。

八代城には、父の細川忠興(ただおき 三斎)が隠居所として住むことになります。

忠興が正保2年(1645)に83歳の高齢で亡くなった後は、筆頭家老の松井興長(おきなが)が、徳川幕府の命で城主として八代城に入ります。

松井家は、細川家の支城である八代城の城代であり家臣でもありましたが、同時に徳川幕府は徳川家直参の城主格としての待遇を与えていました。

そこで細川家も、松井家を一門に準じて扱っています。

このことも、熊本藩に熊本城と八代城の二つの城の存続を認めた理由があったのかもしれませんね。

松井家は、自家の代替わりと徳川家の将軍交替の時には、必ず参勤の礼を行っていました。

松井家は、徳川家、細川家の二重の主君をもつ大変珍しい家格・身分の家です。

以後、八代城では松井氏が8代約220年にわたって城主を務め明治を迎えます。

 

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天守の地下一階跡     by:photo-ac

方形の本丸を中心に、南側から東に囲む細長い二の丸、南西の三の丸、その北側には細長い北の丸、さらにその北側に独立した出丸を設置。

そして中枢部は二重の水濠で囲まれた、輪郭式の縄張りでした。

本丸の北西端には四重五階の大天守が二重二階の小天守を従えて聳えたっていたそうです。

天守は以前、破風のない天守だったと推定されていましたが、近年松井家に秘蔵されていた絵図が発見されました。

その絵図によると、下見板張りで大入母屋と唐破風のある三重と地下一階の大天守、廊下橋を経た二重の小天守が描かれているとのことです。

本丸を囲む塁線上には、三階櫓・月見櫓・宝形櫓・三十軒櫓・磨(みがき)櫓・北九間櫓などの櫓群が置かれた、防御力の高い構えでした。

櫓は、城の要所を敵の目から隠すように仕組まれたもの。

加藤清正の築城術を継承したものといわれています。

二ノ丸には五基の隅櫓が置かれていたといいますから、かなり立派で防御力の高い城だったようですね。

八代城は、現在の八代市市街地を吸収するほどの大規模な城郭でした。

天守は寛文12年(1672)に落雷により焼失しましたが、残念なことに再建されていません。

八代城の石垣は熊本城と同じ技法が用いられており、扇の勾配となっています。

また、石垣には石灰岩が使われていて、築城当初はその白さから白鷺(しらさぎ)城とも呼ばれたようです。

天守台跡     by:photo-ac

八代城址に遺構として残っているのは、大天守台や小天守台の連なりなどの石垣や水濠。

北の丸には細川忠興の手植えという臥龍梅(がりょうばい)が残る庭園跡があり、さらに城跡近くには、三代の松井直之(なおゆき)が建てた茶室の松浜軒(しょうひんけん)が残っていますよ。

松井家3万石の風雅な暮らしぶりが今に伝わっています。

月見櫓跡と八代宮神橋    by:photo-ac

 

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八代宮    by:photo-ac

城跡は市民公園として整備されており、現在は桜の名所です。

本丸跡には、後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州における南朝方の全盛期を築いた、懐良(かねなが)親王を祀る八代宮が造られています。

また北の丸跡に、松井家初代康之(やすゆき)と二代興長を祀る松井神社が創建されていますよ。

ぜひ訪れてみてくださいね。

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CGで再現した動画を見つけました。分かりやすいので、ぜひご覧ください。

www.youtube.com

 

*八代城詳細

・住所:熊本県八代市松江城町7−34

・アクセス:JR鹿児島本線八代駅からバスで約15分、「八代宮前」下車すぐ

・営業時間:24時間

・休業日:なし

 

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【参考文献】

平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)他

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