横須賀城は、武田勝頼に奪われた高天神城を奪い返すための陣城として、徳川家康が築いた平山城です。
近世の中頃までは城のすぐ前まで海が深く入り込んでおり、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害だったといわれています。
日本100名城にも続日本100名城にも選ばれてはいませんが、国の史跡に指定されている見逃せない城です。
別称は、松尾城と両頭城。
横須賀城へは2004年5月8日に登城しました。
この日は、現在「展望台小山城」という名前の犬山城を模した模擬天守が建造されている小山城、難攻不落の高天神城、二俣城と静岡県の4城址を楽しんで帰阪しました。
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横須賀城は、小笠山の枝尾根が南に延び、遠州灘に臨む末端部に山城として築城されました。
戦国時代に、「高天神(たかてんじん)城を制する者は、遠州を制す」といわれた高天神城を武田に奪われた徳川家康は、天正6年(1578)に家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて横須賀城を築きます。
高天神城奪回のため、高天神城の周囲に砦などとともに横須賀城を築き、高天神城の補給路を断ったのですね。
天正9年、家康は籠城していた高天神城の城将岡部元信(もとのぶ)を打ち取り、ついに高天神城を落城させました。
高天神城は落城したあと廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点の城となります。
掛川城の外濠の役目を果たしていた逆川の河口が、横須賀城の入江で横須賀湊がありました。
当時、逆川をつかって横須賀城から船で直接行き来できた掛川城は、東海道の押さえの城です。
それに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押さえであるとともに、海上交通の押さえの城としても重要だったのです。
天正18年の家康の関東移封後は、豊臣秀吉の家臣・渡瀬詮繁(あきしげ)、有馬豊氏が入城していました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後には、大須賀家の養子となっていた榊原康政の子・忠政が再び封じられています。
大須賀忠政は、横須賀城に天守を築き、城下町の整備をしました。
しかし、元和元年(1615)、忠政は家康の命により実家の榊原家を継いだため、大須賀家は絶家。
同5年の頼宣の移封後は、城主は次々と代わります。
そして天和2年(1682)以降は西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代180年間西尾氏の居城で明治を迎えました。
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画像出典:掛川市ホームページ「横須賀城」
横須賀城は、普通はひとつしかない大手門が東西にあり、城域も東西に細長い 「両頭の構え」「両頭の城」といわれる縄張りです。
そして、特徴は何と言っても「玉石積み」といわれる丸い河原石を使った石垣ですね。
東側に本丸を中心とした曲輪を置き、西側に二の丸を置いた形です。
丘陵の一番高い所に本丸があり、東北の隅に四重の天守を築いていました。
本丸の西側に西の丸、北側の丘下には北の丸がありました。
東北の松尾山に大きな空堀を掘って小笠山塊と隔て、東側の丘下に三の丸を置き、三の丸の東南隅に太鼓櫓を建造していました。
西側の二の丸には御殿や馬屋があったようです。
曲輪の南と西側は、大玉石を利用した低い石垣をつくっていますが、他は土塁です。
そして横須賀城の周囲には、沼地を利用した水濠を巡らせていました。
宝永4年(1707)に起きた大地震で地盤が隆起し、周辺の海は陸地となったといわれています。
当時の様子を今は伺い知ることはできませんが、横須賀城の南側には直接遠州灘が広がり、入江と湊があり、物流の拠点にもなっていました。
横須賀城は、正保元年(1644)に、城主井上正利のとき二の丸を、次の城主本多利長が、寛文4年(1664)以降三の丸を拡張する大改造を行っています。
天守台、本丸、西の丸、北の丸、松尾山などの本丸を中心とするエリアが、現在は横須賀城跡公園になっています。
横須賀城の三日月掘や松尾山の大空堀、土塁などが遺構として残っていて、山城から平城に移る、いわば中世から近世への過渡期の城郭の特徴を残していますよ。
*横須賀城詳細
・アクセス:JR・袋井駅前3番乗り場から静鉄ジャストライン秋葉中遠線「大東支所行き」または「横須賀車庫前行き」に乗り「七軒町」下車、徒歩5分
・営業時間:24時間
・休園日:年中無休
【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年㋆15日初版発行)、『別冊歴史読本◎入門シリーズ 日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、掛川市ホームペ―ジ他
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