145回目になりました。
桑名城は東海道の抑えの城として、徳川幕府にとって最も重要な城でした。
近世城郭としての桑名城は、徳川四天王のひとりである本多忠勝(ただかつ)が新たに築いた強大な城郭でした。
伊勢湾に面した、海城とも呼べる平城です。
別称は旭城、扇城。
桑名城へは、2001年10月14日に登城しました。
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桑名城は、天正19年(1591)に一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)によって築かれたという記録が残っているようです。
それより以前、この地には、伊藤武左衛門実房の東城、矢部右馬允主繁の三崎城、樋口内蔵介親氏の西城の三城がありました。
そのうちの東城が、桑名城の前身といわれていますよ。
関ヶ原の戦いの後、西軍についた城主の氏家行広(うじいえ ゆきひろ)は領地を没収されてしまいます。
そして翌年(慶長6年)、上総国大多喜から10万石で本多忠勝が入封しました。
一般に桑名城とよばれている近世城郭は、この忠勝が10年余りの歳月をかけて慶長15年に完成した大城郭のことをいいます。
元和3年(1617)忠勝の子・忠政は播磨国姫路へ15万石で移封。
代わって松平(久松)定勝が11万石で入封してきましたが、寛永12年(1635)に久松松平氏は伊予国松山に移封され、弟の美濃国大垣藩主であった久松定綱が入封となりました。
えらく主が変わりましたね。
文政6年(1823)になって松平(久松)定永が再び桑名にもどり、久松松平家の居城で明治を迎えます。
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幕末に藩主であった松平定敬(さだあき)は、会津藩主の松平容保(かたもり)の実弟です。
京都所司代として、兄の容保とともに京都の治安維持の役につきます。
しかし、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗北。
旧幕府軍とともに江戸に向かいます。
幕末の慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、幕府側の桑名城は新政府軍の攻撃を受け、本丸の巽三重櫓などが焼失してしまいました。
さらに、明治になって解体されます。
石垣は四日市港の建設工事に使われており、三の丸の堀にかろうじて当時の石垣が残っていますよ。
他に遺構として残っているのは、幅の広い水濠や天守台、神戸櫓跡、巽櫓跡などです。
三の丸御殿は浄泉坊に、城門は了順寺に移設され、現存しているそうです。
現在、桑名城址九華公園としてツツジや桜の名所で市民に親しまれています。
桑名城の外濠と伊勢湾が接する所に、東海道の桑名湊(みなと)がありました。
「宮の渡(わたし)」と呼ばれ、尾張熱田の「宮の湊」から桑名湊までは東海道唯一の海上ルートでした。
桑名湊は桑名城の外濠にあったので、湊を望む船番所を兼ねた櫓が二の丸北側に設けられ、厳しい監視をしていたそうです。
揖斐川河口南岸に、町屋川の流れを変えてその跡を濠に利用しています。
城郭は水害から守るために総石垣でした。
本多忠政は、元和2年(1616)に新城(のちの三の丸)を築き、その後に定勝が外朝日丸、吉の丸を築くなどして修築しています。
定勝は将軍・徳川秀忠の上洛に際し、本丸に宿所として御殿を造営しました。
桑名城は、ほぼ四角形の本丸と、本丸の東側に内朝日丸、外朝日丸を設け、南側には二の丸を設けて廊下橋で結び、北側に三の丸、西南に丸の内を設けて武家屋敷を置いた大規模な城郭でした。
定綱は入封した寛永12年(1635)に、本丸の東北隅に四重六階の天守を築き、他の三隅には三重櫓を置いていたようです。
西南隅櫓は、移築した伊勢神戸城の天守といわれています。
櫓は51、多聞櫓41、水門は3つも建てられていたと伝わっているので、要塞堅固な城構えの大規模城郭でした。
御殿は三の丸にあったようですよ。
そして桑名の城下町の基礎を築いたのは、本多忠勝でした。
元禄14(1701)に城下町から出火した火災で、天守をはじめ御殿など多くの建築物が焼失。
御殿は同16年に再建されましたが、天守は再建されませんでした。
蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)は、平成15年(2003)に外観が復元された二重櫓です。
この櫓は国土交通省水門統合管理所の建物ですが、蟠龍櫓跡に建造され、1階は水門管理所、2階は桑名市所管の展望台兼資料室になっています。
国土交通省も粋なことをしますね。
文政6年に、再び桑名に戻った松平(久松)定永は、松平(久松)家の祖・松平定綱(鎮国公)と、九代藩主・松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を建立しました。
明治40年(1907)に本丸跡に移されています。
県指定史跡の七里の渡し跡が外濠の合流点に残っていて、東海道の名勝であった昔を偲べます。
「東海道」の道標と鳥居が建てられています。
では、「七里の渡し」にまつわる話を少し。
豊臣秀頼に嫁いでいた千姫は、大坂城落城の前に大坂城を脱出します。
その千姫と「七里の渡し」の警護をしていた本多忠勝の嫡子・忠刻が船のなかで出会い、恋に落ちたという話が伝わっています。
元和3年(1617)に、忠刻は父忠政とは別に新たに10万石を与えられ姫路城に移っています。
そして姫路城西の丸を改造し、千姫用に化粧櫓などの殿舎を建造しました。
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*桑名城詳細
・アクセス:JR関西本線、近畿日本鉄道の桑名駅下車、東へ徒歩20分
・営業時間:24時間
・休業日:年中無休
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)他
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