日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第71回 甲府城

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甲府城   by:photo-ac

71回目です。

山梨県甲府城は、徳川幕府の最重要地甲府に要(かなめ)の城として築城された城。

東日本最大級を誇る高石垣の大城郭で、平山城です。

別称は府中(ふちゅう)城、舞鶴城、一条小山城、甲斐府(かいふちゅう)、「日本100名城」(第25番)に選定されています。

甲府城へは2000年6月21日に登城しました。

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武田信玄公の銅像    by:photo-ac

甲府とは、甲斐の府中(守護所)が置かれたところという意味だそうです。

甲斐国を永く治めていた武田信玄が亡くなった後、徳川家康平岩親吉(ひらいわ ちかよし)に命じ、甲府の一条小山にあたらしい甲斐国の府城としての築城を始めました。

天正11年のことです。

続いて秀吉が、家臣の加藤光泰(みつやす)や浅野長政に命じて工事を続行、この時代に本丸と天守台が出来上がり、関ヶ原の戦い前後にはほぼ完成したとか。

関ヶ原の戦いの後、甲府城は再び徳川家の城となり、平岩親吉が城代として入城。

江戸城の西の守りの要の城として位置づけられ、大規模な修築がされます。

江戸幕府開設の慶長8年(1603)には、尾張徳川家の始祖となる家康の九男・義直(よしなお)が入城します。

同12年に義直が名古屋に転封した後は幕府直轄(天領)となり、徳川一門の城代が置かれました。

宝永元年(1704)に甲府藩主だった家宣(いえのぶ)が六代将軍に決まると、代わって五代将軍綱吉の側用人(そばようにん)で寵臣の柳澤吉保(よしやす)が、徳川一門以外の初めての甲府城主として15万石で入城します。

それまでは徳川家の親族だけが藩主となれた甲府藩の藩主に柳澤吉保がなったということは、柳沢が徳川一族並みの扱いを受けていたということでしょう。

吉保は、荒れていた城の修築や建物の増築を行い、あわせて城下町の整備を進めて近世城郭として甲府城の体裁を整えました。

このとき甲府城は大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展。

甲府にとって柳澤吉保は大恩人ですね。

しかし、吉保は甲府城で暮らしたことはないようです。

何しろ将軍の側用人ですからね。

享保9年(1724)に吉保の子・吉里(よしさと)が大和郡山に転封後は、甲府藩は廃藩となり、再び幕府の直轄地となりました。

しかし、その城も享保12年(1727)の火災で、城内のほとんどの建物が焼失したまま再建されず、江戸時代後期は城主もいない寂しい城だったようです。

こうして甲府城は、城主不在のまま明治維新を迎えます。

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甲府城址入口  by:photo-ac

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甲府城址入口   by:photo-ac

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舞鶴公園甲府城址)俯瞰図パネル  by:photo-ac

甲府城は最高所である本丸の下に二の丸を置き、その周囲に稲荷、楽屋、鍛冶、清水の四つの曲輪を配した典型的な梯郭式の縄張りです。

江戸時代は天領だった甲府にふさわしい大城郭で、野面積みの高石垣は東日本随一のもの。

往時の面影を今に伝えています。

また、江戸城の西の守りの要の城として特別に位置づけられていました。

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天守台   by:photo-ac

江戸時代に天守は無かったようですが、発掘調査で金箔瓦が出土しています。

そのため、豊臣政権時代には壮麗な天守が存在していたと考えられます。

文献資料においては天守復元の手掛かりとなる絵図や古文書などは発見されていません。

甲府市は、天守復元の願いをもち、懸賞金を出して資料の探索を続けています。

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鉄門     by:photo-ac

鉄門(くろがねもん)は平成25年に復元されました。

本丸の南側にある櫓門です。

創建当初は「南門」と呼ばれていたようですが、柳沢氏時代に改称され、「鉄門」と呼ばれるようになりました。

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稲荷櫓    by:photo-ac

平成16年に再建された稲荷櫓は、城の鬼門方向にあったため艮(うしとら)櫓とも呼ばれていました。

内部は資料館として公開されています。

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内松陰門   by:photo-ac

平成11年に再建された二の丸入り口の内松陰門。

質素な高麗門です。

石垣の多い甲府城は、城壁の復元も進められています。

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甲府城の高石垣  by:photo-ac

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内濠   by:photo-ac

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遊亀橋     by:photo-ac

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山手渡櫓門   by:photo-ac


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山手門   by:photo-ac

平成19年に完成した甲府市歴史公園には、甲府城の石垣を用いて復元された山手御門が建っています。

山手御門とは、山手門(やまのてもん)と山手渡櫓門(やまのてわたりやぐらもん)の総称です。

甲府城にあった三つの出入り口のひとつで、桝形になっています。

山手門は城門として、山手渡櫓門は武器庫としての役割を果たしていたそうです。

発掘調査により発見された石垣を土台に、1700年頃の絵図をもとに、柳澤吉保が城主だった時代の姿に復元されました。

内部は展示室となっていて、発掘調査で出土した瓦や陶磁器、山手渡櫓門のミニチュア模型、江戸時代の歴史資料などが展示されていますよ。

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天守台から眺めた甲府市街  by:photo-ac

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甲府駅すぐ横にある甲府城址 by:photo-ac

現在、城址舞鶴城公園です。

城址には天守台、本丸、二の丸、台所曲輪、鍛冶曲輪などの石垣と南側の内濠が当時の姿を残していますよ。

舞鶴公園再整備事業が実施され、石垣の修理や門、城塀などの復元力を入れており、整備が進んでいます。

 

2002年6月21日に訪ねた頃の甲府城址は、まだ本格的な整備が始まったばかりで、私は残念ながら今回ご紹介した櫓や門などの姿は見ておりません。

是非もう一度探訪したい城址です。

2002年に行ったときは、甲府城址に続いて武田信玄の本拠地・躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)址を探訪。

石垣や濠が残存している館跡は、信玄を祀る立派な武田神社となっていて多くの参拝者がお参りしていました。

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躑躅ケ崎館址・武田神社入口  by:photo-ac

 

甲府城詳細

・住所:山梨県甲府市丸の内一丁目

・アクセス:甲府駅から徒歩で5分

・営業時間:舞鶴城公園は24時間/稲荷櫓と鉄門は9:00~16:30

・休業日:舞鶴城公園は年中無休/稲荷櫓・鉄門は月曜休業(祝日は開館、翌日休業)・12月29日から翌年1月3日

 

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【参考文献】

平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行))、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年㋆15日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城  其ノ二』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日発行)他

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