日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書いていきます

お城大好き雑記 第98回 鳥取城

鳥取城と久松山  by:photo-ac

98回目になりました!

今回は、鳥取県鳥取城とまいりましょう。

米子城と同じく、山陰の名城と並び称された鳥取は、因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を統治する拠点の城です。

また、羽柴秀吉が「飢え殺し」戦法で落城させたことでも有名な城ですよね。

鳥取城は、「日本100名城」(第63番)に選定、国の史跡にも指定されています。

久松山(きゅうしょうざん)山頂に築かれた戦国時代の山城(山上の丸)と、麓の近世城郭(山下の丸)の二つの城郭部からなっています。

別称は、松山城(きゅうしょうざんじょう)、久松(きゅうしょう)

鳥取城へ、私は2002年6月21日に登城しました。

久松山山頂にある山上の丸石垣     by:photo-ac

仁風閣と二の丸の高石垣     by:photo-ac

鳥取城は、千代(せんだい)川と袋(ふくろ)川を天然の要害とし、標高263mの久松山山頂と麓の2か所で構成されています。

因幡(いなば)国の守護である山名誠通(やまな さねみち)が家老の武田豊前守に命じて、天文14年(1545)に築いたのが始まりです(異説あり)。

この時代の鳥取城は、山名氏の居城・天神山(てんじんやま)城の出城でした。

鳥取城の定番を務めていた家老の武田豊前守は、濠や櫓を築いて本城の天神山城に迫るほどの城塞化を進めました。

しかしその子・高信(たかのぶ)が反旗を翻したので、山名豊国(とよくに)が高信を破り、入城します。

豊国が入城する前は松山城と言われていたようです。

彼は天神山城の天守櫓を移築。城下町も移して、鳥取城を因幡国の本城としました。

天正8年(1580)に、毛利氏に属していた山名豊国は羽柴秀吉に攻められて降伏。

しかし、これを不満とした家臣団は、当主の豊国を追放してしまうのですね。

なんと、翌9年に毛利方から吉川経家(きっかわ つねいえ)を城将に迎え、秀吉と戦いを続けたのでした。

吉川経家像      by:photo-ac

このとき秀吉は、二万の大軍で鳥取城を包囲、城の南側にある太閤ケ平(たいこうがなる)に本陣を構えて攻城します。

しかし、鳥取城の堅固さを知り、兵糧攻めの戦法を取ることに。

天正7年(1579)の播州三木城を攻城したときと同じですね。

城兵ばかりか領民まで鳥取城に追いやられ、3500人もの籠城者がいる城内は悲惨でした。

後の世に言う鳥取城の飢え殺し」です。

4か月に及ぶ兵糧攻めの結果、城内は飢餓地獄。

経家は切腹鳥取城は落城します。

落城後は、秀吉の武将・宮部継潤(つぐひろ)が入城しました。

しかし関ヶ原の戦いで西軍だった宮部氏は、戦後領地が没収されました。

代わって池田長吉(ながよし)が6万石で入封。

慶長7年(1602)から城の大改築に取り掛かりました。

山上の丸だけでなく、山麓に天球丸、その下段に二の丸と三の丸を逐次築き、その前面には内濠を廻らせます。

こうして鳥取城は、梯郭式縄張りの近世城郭となりました。

その後、元和3年(1617)に長吉の子・長幸(ながゆき)が備中松山に移封。

代わって姫路から池田光政(みつまさ)が因幡伯耆(ほうき)32万石の国主として入城してきます。

光政も城の整備と城下町の拡張に努めました。

寛永9年(1632)には、光政の従兄弟である備前岡山城主・池田光仲(みつなか)と国替えとなり、以後明治に至るまで12代240年間池田光仲系池田氏の居城でした。

池田藩政下で、支城の伯耆・米田城は、主席家老の荒尾氏が城代家老として預かり、廃城となることなく明治を迎えています。

 

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野面積の二の丸高石垣    by:photo-ac

三階櫓跡     by:photo-ac

豊国が築いた天守は三重造りで、檜皮葺(ひわだぶき)だったようです。

池田長吉はそれを二重に改め、天守として利用していました。

しかし残念なことに、元禄5年(1692)に落雷で焼失。

長吉は天守の復興はせず、二の丸に御三階櫓を築き、天守の代用としました。

次の古写真を見るとわかるように、この御三階櫓は破風などの装飾はひとつもありません。

連子窓を開き、下見板張りの素朴な姿でした。

二の丸には走(はしり)櫓と菱櫓が建造され、城主の居所となっていました。

また、二の丸より一段高く天球丸を置き、長吉の姉・天玉院の居所としていたようです。

御三階櫓(左端)走櫓、菱櫓(右端)(『城 6 中国』より)

天球丸高石垣 鳥取城にしかない巻石垣と言われる球型石垣 by:photo-ac

中ノ御門表門   by:photo-ac

中ノ御門は元和7年(1621)に池田光政によって創建されました。

享保5年(1720)の大火で焼失しましたがその年のうちに再建され、江戸時代を通じて存在していたのですね。

明治になってから一度取り壊されたのですが、解体直前に撮影された古写真が残っていたため復元の手掛かりとなりました。

令和元年から復元工事が始まっていた中ノ御門表門(大手門)は令和3年3月に完成。

小さいながらも内桝形で高麗門形式です。

手前は、2018年に完成した擬宝珠橋。

次の YouTube で紹介されているように、鳥取市鳥取城大手登城路の復元を計画・実施しています。

2024年には中ノ御門の渡櫓が復元されます。

計画が完成した姿を是非見に行きたいものです。

二の丸に登る坂道にある中仕切(なかじきり)門    by:photo-ac

三の丸と二の丸の境にある鳥取城唯一の遺構。

昭和50年の台風により崩壊しましたが、金具など再利用して再建された高麗門形式の中仕切門です。

内濠と二の丸石垣、久松山   by:photo-ac

 濠     by:photo-ac

二の丸から鳥取市街を望む     by:photo-ac

 

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仁風閣   by:photo-ac

城址は現在久松公園となっています。

二の丸にある仁風閣(じんぷうかく)は、明治40年(1907)に旧藩主池田氏の別邸として、宝隆院庭園とともに建造されました。

大正天皇巡行の時には、宿泊所として使われた名建築です

華麗な明治洋風建築の姿を今に伝えていますね。

重要文化財に指定されています。

宝隆院庭園    by:photo-ac

鳥取市が作った動画です。面白いので、ぜひ!

youtu.be

 

鳥取城詳細

・住所:鳥取県鳥取市東町2

・アクセス:JR鳥取駅から100円循環バスくる梨(緑コース)で約8分、「仁風閣・県立博物館」または「市立武道館」下車すぐ

・営業時間:24時間

・休業日:なし

 

 

 

【参考文献】

平井 聖監修『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其の三』及び『同 解説編』(本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日大刷発行)他

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