秋晴れの10月28日(2022年)に、気ままにぶらっと奈良県の宇陀松山城に行ってきました。
宇陀松山城は、初めての登城です。
昔、奈良市には8年ほど住んでいました。
その頃は近鉄榛原駅からバスに20分ほど乗っていく宇陀市大宇陀はとても遠い町と思ってしまって、今まで行ったことがなかったのですね。
しかし最近『関西の城あるき』という本を読んで、宇陀松山城を探訪し、伝統的な建造物がたくさん残っている古い町並みを歩いてみたいと思ったのです。
というわけで、決行!
秋の一日、宇陀松山城と大宇陀の町をゆっくり楽しみました。
宇陀松山城は「続日本100名城」第166番に指定されています。
別称は秋山城です。
「まちかどラボ」で続日本100名城のスタンプを押して、裏手にあるこの車道を登って行きます。
本丸まで徒歩約20分です。
宇陀松山城は、標高473mの古城山の山頂を中心に築かれた山城です。
宇陀の有力国人・秋山氏が、南北朝時代に本城(秋山城)として築いた城が起源といわれています。
天正13年(1585)に豊臣秀吉の弟・秀長が大和郡山城に入城すると、家臣の伊藤義之が秋山城に入りました。
以後、豊臣家の家臣が入城し、城が整備されていきます。
大和郡山城・高取城とともに、豊臣政権下では大和支配の要の城でした。
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そして文禄元年(1592)に多賀秀種が入城すると、秋山城と城下町の大規模な改修・整備を行います。
しかし西軍についた秀種は、関ヶ原の戦いのあと改易。
宇陀松山城は徳川系の福島高晴に与えられました。
福島氏のときに松山町(松山城)と名前が改められ、昭和17年(1942)に大宇陀町となるまでの340年の間、呼称は宇陀松山です。
天守郭周辺の発掘調査によって、カタバミ紋を表現する鬼瓦が発見されたことから、宇陀松山城の本格的な改修と整備が多賀秀種によってなされた可能性が高くなりました。
舗装された車道を登ってきて、いよいよ城域に入ります。
ここからは鬱蒼とした山道をひたすら上へ。
山城の風格が漂っています。
雀門へ向かう手前にある横堀です。
最も深いところでは何と5m!
城の南西方面を守る防御施設です。
城郭の主なところは高石垣で構築されており、南西虎口は大規模かつ複雑な桝形となっていました。
また、礎石建ちの瓦葺き建物が数多く建てられ、近世初期の特徴をもっている城郭でしたね。
その構造は、2つの郭群からなっています。
1つは、本丸、天守郭などの主郭部と一段低い二の丸で構成される中心郭群。
そしてもう1つは、その外側下を御加番(おかばん)郭や御定番(おじょうばん)郭などが壇状に囲む、外縁部の郭群です。
本丸には対面・接客などの儀礼の場としての表向御殿(本丸御殿)が建ち、周囲を多聞櫓が囲んでいました。
天守郭には、日常の生活空間となる奥向御殿が建てられていたと考えられています。
帯郭、本丸、天守郭は、それぞれが石垣と虎口で区切られていました。
宇陀松山城は、外縁部の郭群、帯郭、本丸、天守郭と階層的・同心円状の構造をもった輪郭式縄張りの城郭だったようですね。
山城としては大変珍しい縄張りです。
いわば、比高差と郭の配置との巧みな連関によってできた、極めて求心性の高い城郭だったといえます。
本丸西側からみた天守郭です。
本丸側の低い石垣が残っています。
下の写真では石垣は見られませんが、築城当時は天守郭の周囲を取り巻くように石垣が築かれていました。
天守郭には二重もしくは三重位の小規模な天守があり、付櫓と多聞櫓で連結されていたようです。
大坂の陣のあと、元和元年(1615)に福島氏は改易。
幕府の命令により宇陀松山城は破却されます。
その城割(しろわり=城郭を破却すること)役を担ったのが、築城家で有名な小堀遠州です。
破却は、天守郭・本丸は勿論のこと、帯郭に至るまで城郭全体にわたって実施されました。
御殿や櫓、門などの解体・撤去だけでなく、石垣、石段、礎石などが破壊された様子が、発掘調査で明らかとなっています。
また、城割に関わる小堀遠州の書状が残っており、城割の具体的な内容が把握できる大変珍しい事例となっています。
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福島氏に代わって、織田信雄(のぶかつ)が城のない宇陀松山初代藩主として入封、藩屋敷(長山屋敷)を構えました。
以後4代80年の間、織田家が宇陀松山を治めます。
信雄は、はじめ織田信長に仕え、その後主君を秀吉、家康、秀忠と変えた戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
宇陀松山城は、周りを幾重にも連なる山々に囲まれた地に建てられていることがよくわかります。
宇陀松山城大手筋にあった春日門の櫓台の石垣です。
上の説明板で分かるのは、春日神社の門というよりは藩屋敷を防御する桝形の櫓門だったこと。
織田氏は、春日神社の西側に向屋敷、北側に上屋敷を構えていました。
写真が見にくくてすみません。
「春日神社の由緒」書きによると、春日神社は単なる神社としてではなく、宇陀松山城の郭としての機能をもっていたことがわかります。
「春日神社水鉢」の説明板を読むと、元禄8年(1695)に織田家にお家騒動が起こり、織田氏の第4代藩主・信武が自害したようです。
このため、5代目の信休は丹波国氷上郡柏原(かいばら)に2万石に減封のうえ転封。
宇陀松山藩は廃藩となり、以降幕府領となりました。
このことは一般に「宇陀崩れ」と呼ばれています。
手前が城下町側で、門の向こう側が桝形となっています。
福島高晴が城主であった江戸初期に建てられた、宇陀松山城唯一の遺構です。
この国史跡「松山西口関門」は、壁以外は黒く塗られているため「黒門」と呼ばれていました。
旧城下町の入口にあり、風格のある姿です。
門の手前を流れる宇陀川は、城下町を守る濠の役割を果たしていました。
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宇陀市の松山地区は、江戸時代から昭和初期に造られた家が多く残っている、国の重要伝統的建物群保存地区に指定されています。
宇陀松山城の城下町は、廃城となってから商家町へと変遷して栄えました。
かつては「松山千軒」「宇陀千軒」と呼ばれたほどの繁栄ぶりだったのですね。
享保14年(1729)に開かれたのは、日本最古の民間薬草園です。
現在国史跡の「森野旧薬園」として薬草栽培を継承していますよ。
宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」は、薬で栄えた歴史を紹介する薬問屋。
旧細川家の江戸時代の住宅です。
薬の看板などの資料が展示されています。
漆喰塗りの壁が目立つ通り沿いの家には、さまざまな格子や虫籠(むしこ)窓、家紋や模様を入れた卯建(うだつ)などがあり、それらを見て歩くだけでも楽しい時間を過ごせますよ。
大宇陀は、古代では阿騎野(あきの)と呼ばれる宮廷の狩猟場でした。
『万葉集』に、この地を舞台にした歌がたくさんあるようです。
そのなかでも、特に秀歌として有名な歌は
「東の野にかぎろいの立つ見えて かえり見すれば月かたむきぬ」
です。
692年に持統天皇の孫・軽皇子(かるのみこ)がこの地に狩猟来た時、随行してきた柿本人麻呂が詠んだ歌ですね。
「かぎろひの丘万葉公園」にその歌碑があり、近くの阿騎野・人麻呂公園には、馬に乗った人麻呂の像が建てられていますよ。
(写真は筆者撮影)
宇陀市が公開している動画で再現CGを見てくださいー!格好いいです!
これを完全に壊したのか、と思うとそれはそれでまたすごいの一言ですよね。
*宇陀松山城詳細
・アクセス:近鉄大阪線・榛原駅から「大宇陀」行きバスに乗り「西山」バス停下車、徒歩20分
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『関西の城あるき』(京阪神エルマガジン社 2019年10月7日初版発行)、「宇陀松山 城と町」(宇陀市教育委員会 平成29年3月24日発行)、「大宇陀観光イラストマップ」(桜まつり実行委員会)他
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