105回目になりました。
今回は、滋賀県の小谷(おだに)城です。
小谷城は、近江国守護京極氏の家臣・浅井亮政(すけまさ)が、小谷山に築いた戦国屈指の堅城。
尾根の両面が急斜面で非常に攻めにくく、それを活かして尾根伝いに一列に曲輪を置いた、山全体が城という山岳城の特徴を備えた巨大城郭です。
戦国時代に、湖北地方を3代50年にわたって支配した浅井氏の居城ですね。
ここは現在、建物などの遺構は何もありません。
しかし自然の地形を活かした曲輪跡や、崩れかかってはいるものの石垣や空堀跡も残っています。
戦国時代の山城の姿を今に伝える五大山城※のひとつです。
別称は小谷大嶽(おだにおおだけ)城。
「日本100名城」(第49番)に選定され、国の史跡にも指定されています。
私は2006年5月5日に登城しました。
※五大山城:新潟県の春日山城、石川県七尾城、滋賀県の観音寺城、鳥取県の月山富田城とこの小谷城
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浅井亮政は最初、佐々木六角氏との戦いに備えるために大嶽に「大嶽城」を築きました。
これは、山岳宗教寺院跡を改修して造ったもののようです。
そして大永3年(1523)頃には、琵琶湖を一望できる296mの小谷山の中腹に小谷城を築きます。
小谷山の西側と琵琶湖の間は、北国と東海・西国を結ぶ交通の要衝。
観音寺城の城主であった佐々木六角定頼(さだより)は、たびたび小谷城を攻めますが、小谷城は要害堅固な城で攻め落とせませんでした。
2代目の浅井久政は、湖北一帯を領国として治め、浅井家は全盛期を迎えます。
さらに3代目の長政は、永禄10年(1567)に織田信長の妹お市を正室に迎え、信長と友好関係を結びます。
長政とお市は政略結婚ではありましたが、大変仲のよい夫婦だったそうですね。
浅井氏は信長と組んだ後、六角氏の観音寺城を攻め落としました。
しかし永禄13年(1570)になると、信長が一乗谷で権勢を誇っていた朝倉氏を攻撃します。
この朝倉氏は浅井家が祖父・亮政の時代から同盟を結んでいた家。
そのため長政は仁義を重んじて朝倉氏に味方し、元亀元年(1570)に朝倉攻めの信長に反旗を翻します。
信長は、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いのあと、小谷城を攻めますが落城しません。
ところが浅井長政の重臣で出城の山本山城を守る阿閉(あつじ)氏が織田側に投降。
そのうえ中丸を守っていた浅井七郎、三田村左衛門尉、大野木茂俊が秀吉軍に寝返り、京極丸に導き入れたのです。
これが小谷城落城のきっかけになったといわれています。
長政は本丸を出て戦いますが、家臣赤尾の屋敷で自刃。
享年29歳の若さでした。
小谷城攻城の先鋒として活躍した羽柴秀吉は、小谷城を信長から与えられ、初めて城持ち大名として小谷城に2年半ほど居城します。
その後秀吉は、天正4年(1576)に信長の命令で小谷城の本丸などの解体資材を再利用し、琵琶湖畔の今浜に長浜城を築城します。
小谷城は廃城となりました。
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小谷城は、大きく分けて三つの城域に分かれています。
1つ目は、本丸・中の丸などがある本城部分。
2つ目は、標高494mの大嶽と呼ばれる山城の部分で、戦闘用の詰めの城。
3つ目は、三の丸・金吾丸・福寿丸などの支援曲輪の城域部分です。
そして山の要所には重臣の屋敷が配置され、城郭全体としては奥に進むほど高くなるよう、自然を上手に利用して城郭施設を配備しています。
まったく攻めにくい城郭です。
上の図に書き込まれた黒金門は、本丸(大広間)への表門のこと。
黒金門はその名前が示しているように、鉄製の門扉か、鉄板が貼られた厳重な門だったと考えられています。
また、黒金門の両側には多聞櫓が続いていたようです。
小谷城落城の引き金となった場所です。
小丸には長政の父、2代目だった浅井久政が住んでいました。
清水谷から京極丸を攻めた秀吉は小丸を集中的に攻撃し、本丸の長政と分断します。
久政はこれまでと覚悟を決め、訣別の小宴のあと自刃して果てます。
ここは城内で一番高いところにある曲輪。
日吉山王を祀った詰めの城の曲輪です。
石垣が山王丸の側面に残っています。
苔むした石垣はかつての山城の姿を髣髴させていますね。
小谷城攻城のさいに、織田信長は、正面に見える虎御前山城に本陣を築きます。
幟に見える家紋は三つ盛亀甲に唐花菱ですが、これは長政個人の家紋のようです。
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長政の息子は磔にされましたが、妻・お市と3人の娘たちは小谷城から救い出されます。
この子供が有名な浅井3姉妹ですね。
上から茶々(後の淀殿)、初、江です。
お市の方はこの後、北ノ庄城の城主・柴田勝家に嫁ぎ、秀吉の攻撃による北庄城落城のときには勝家とともに自刃。
この時代に夫と一緒に自刃することは珍しかったようです。
長女・茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、その秀頼は茶々の妹・お江の子供で7歳だった千姫と結婚(つまりいとこ同士で結婚)。
そして末妹のお江は、徳川2代将軍秀忠の正室となり、3代家光や和子を生みます。
和子は東福門院として後水尾天皇の正室となり、明正天皇をの生母となりました。
浅井家の男系は途絶えましたが、女系の方は今も絶えることなく続いています。
戦乱の世を生きぬき、時代の大きな流れの中を生き抜いた姉妹です。
*小谷城詳細
・アクセス:JR北陸本線・河毛駅からこはくちょうタクシー(要事前登録・予約)に乗り約10分、「小谷城歴史資料館」下車、本丸まで徒歩約40分
・営業時間:24時間
・休業日:なし
【参考文献】
平井聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日 第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日 初版発行)、『戦国の堅城Ⅱ』(学習研究社 2006年1月10日 第1刷発行)、『関西の城あるき』京阪神エルマガジン社 2019年10月7日 初版発行)、「小谷山周辺観光案内図」チラシ他
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