ついに第100回目の城の紹介です。
1回目の高知城から、ようやくここまで来ました!!°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
では、みていきましょう。
JR明石駅のホームから真正面に、美しい二基の三重櫓の姿が見られる、明石城。
明石は、畿内と西国、四国、淡路島を結ぶ交通の要衝です。
「日本100名城」(第58番)に選定されている平山城で、別称は喜春(きしゅん)城、錦江(きんこう)城、鶴城(つるのしろ)。
明石城へは2000年8月13日に初登城、その後何度も攻城し、最近では11月18日(2022年)にしっかり探訪してきました。
なお、「喜春城」の由来については、以下のことが「明石城―ミニガイド―」に書かれています。
5代目城主・松平信之のとき、儒学者の片山兼山に命じて明石城内十景を選びました。
そのときに「喜春城」の雅名が生まれたそうです。
出典は、中国の故事「塩鉄論」の一節。
「君主は仁を以て政を行わねばならず、あたかも春の草木を育てるごとく、善を賞するを貴ぶ」
からだそうです。
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明石城は、明石海峡を望む標高約30mの丘陵の南端に築城されています。
城下に港湾を持つことからいえば、変形の海城ともいえるでしょう。
三重三階建ての二つの櫓は、白漆喰総塗込めのまばゆいばかりの姿です。
明石海峡にむかってその美しい姿を見せているのは、明石海峡を通る船を意識しているからでしょうか。
元和3年(1617)に、徳川家康の外孫の小笠原忠真(ただざね)が、大坂夏の陣の戦功によって10万石で明石へ入封してきます。
信濃松本からの移動でした。
小笠原忠真が入封したときの城は、天正13年(1585)に高山右近が改修した船上(ふなげ)城でした。
船上城は明石川河口の湿地に築かれた平城で、防衛上の弱点があったのですね。
そのため、2代将軍の徳川秀忠は、忠真に姫路城主の本多忠政(ただまさ)と協力して新しく城を築くことを命じます。
元和4年(1618)、明石城は築かれました。
徳川大坂城の西の守りで西国の押さえ、また姫路城の後詰めの城としてでした。
しかし、輝政の死後、長男の利隆(としたか)も若死にしたため、まだ幼い光政が跡を継ぎます。
光政を姫路から鳥取に移し、姫路に重臣・本多忠政を、明石には小笠原忠真を入れ、協力して守るようにしたのです。
本多忠政の妻・熊姫は、家康の孫娘。
そして本多忠政の娘婿が、小笠原忠真なのですね。
かなり家康の身内で固めています。
将軍の徳川秀忠は三人の普請奉行を派遣し、築城費用として銀千貫目(約31億円)を幕府から忠真に補助しました。
これは5万石に相当しますので、築城費用に破額の援助をしたことになります。
また、伏見城から坤櫓が贈られました。
徳川幕府は、福山城築城の時と同じように手厚い援助をしていますね。
これらのことから、いかに明石城の築城が徳川幕府にとって重要なことだったかがわかります。
築城にあたっては、船上城や、一国一城令で廃城となった周辺の三木城、高砂城、枝吉(えだよし)城の解体資材なども使われたそうです。
また、当時本多家に仕えていた宮本武蔵が町割りを、幕府から派遣された小堀遠州が造園を手伝ったといいます。
寛永9年(1632)に小笠原忠真は、15万石で豊前小倉城に転封していきました。
その後、城主は4氏が入れ替わり、天和2年(1682)に越前大野城から松平(越前)直明(なおあき)が入城します。
その後は松平氏が10代続いて、明治を迎えました。
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船上城の遺構と伝わっている巽(たつみ)櫓は、重要文化財です。
南面の一重目に軒唐破風、二重目に千鳥破風が置かれています。
ポスターを見ると、武家屋敷を囲む外濠のすぐ前に明石海峡が迫っているのが良く分かります。
また、淡路島が描かれていますね。
江戸時代の明石城の城絵図は何枚かあるとのことですが、正保年間(1644~48)に幕府の命令で作成されたこの絵図がもっとも正確で信頼できる絵図だと言われています。
ほぼ四角形の本丸を台地の南端に置き、その東に空堀を隔てて二の丸と三の丸(後の東の丸)を置く連郭式の縄張り。
北に捨郭(すてぐるわ)として北の丸、西側に一段低くして西曲輪(稲荷曲輪)、帯曲輪、山里曲輪を梯郭式に置いています。
本丸の四隅には三重の隅櫓が建てられました。
坤櫓の隣に天守台が築かれていますが、天守は建造されませんでした。
台地の西麓(ろく)から南麓にかけての平地に居屋敷郭を置き、その東に三の丸を置いています。
居屋敷郭を内堀が囲み、城郭全体を中堀、千石堀、薬研堀、剛の池が囲んでいますね。
また本丸、二の丸、東の丸の北側の崖の下には桜濠があり、北の丸とを隔てています。
強大な防御力を誇る城郭だったことがわかります。
ところが残念なことに、寛永8年(1631)に三の丸下屋敷から出火。
本丸まで火がまわり、本丸御殿をはじめ隅櫓や多聞櫓までことごとく焼失しました。
本丸には御殿は再建されず、三の丸に屋敷を建て藩主の御殿としました。
本丸の四隅の櫓を再建し塀で繋いだ形となっていたようです。
明石城では、本丸・二の丸・東の丸(旧三の丸)は高石垣で造られています。
そのほとんどが穴太(あのう)積みと言われる堅牢な野面積みです。
「扇の勾配」といわれる反りをもち、美しい曲線を描いている石垣ですね。
明石城では、石垣に転用石は使われていません。
ただ天守台登り口の石段に、宝篋印塔の台石が一個だけあるとのことです。
誰が何のためにそこに一個だけ据えたのかは、いまだ謎だとか。
稲荷曲輪から見た左が天守台石垣で、右は坤櫓です。
西面の一重目に軒唐破風、二重目には千鳥破風がおかれていますね。
坤櫓は、天守が建造されなかった明石城では最大規模の隅櫓です。
天守台のすぐ南側にあるもので、天守に代わる役割を果たしていたと思われています。
坤櫓は重要文化財に指定されたもの。
坤櫓東面の二重目が、軒唐破風と千鳥破風の二重破風になっています。
これは大変珍しい形です。
北面の一重目は千鳥破風ですね。
上の写真は、天守台から見た坤櫓です。
西面の一重目が軒唐破風、二重目には千鳥破風が置かれ
ています。
大手門前にあった武家屋敷跡に造られたJR明石駅から明石港までは、今は少し距離があります。
しかし、築城時はすぐ前に港がありました。
西面に千鳥破風が置かれていますが、二重、三重目には格子窓さえない、簡素な姿です。
巽櫓の東面と北面に千鳥破風が置かれています。
明石城址は現在、県立明石公園となっています。
市民の憩いの場となっているだけでなく、さまざまなスポーツ施設も設けられていますよ。
巽櫓は妻部を東西にしていますが、坤櫓は妻部を南北に向け、棟の方向が異なっています。
南面の一重目は坤櫓が千鳥破風、巽櫓は軒唐破風。
そして二重目は坤櫓が軒唐破風で巽櫓は千鳥破風。
さらに三重目の屋根の部分は、上の写真では分かりづらいのですが、坤櫓が入母屋で木蓮格子となっているのに対し、巽櫓は普通の入母屋です。
坤櫓の東面の二重目には前述したように二重破風の豪華な面となっています。
それに対面する巽櫓の西面には千鳥破風だけの面です。
このことからも、坤櫓が天守の代用だったことが分かりますね。
左右で全く反対の破風を付けて、見事な景観を見せています。
詳しくは、前掲のそれぞれの櫓の写真をご参照ください。
明石城の公式サイトです!
*明石城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:無休
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【参考文献】
平井 聖監修『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其の一』及び『同 解説編』(本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日大刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、「明石城 震災復興の記録」(兵庫県)、「明石城―ミニガイド―」(兵庫県立明石公園)他
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