「気ままにぶらっと城跡へ」の第27回目は、前回に続いて明智光秀の城、大津市坂本の琵琶湖のほとりにある坂本城です。
坂本城は、明智光秀を中心とした織田軍による比叡山焼き討ちのあと、織田信長の命によって明智光秀が築城し、光秀が妻子とともに暮らした居城です。
丹波亀山城近くにある明智光秀像に比べると、なんとも言いようのない光秀の石像ですね。
2024年4月28日に再攻城してきました。
元亀2年(1571)、織田信長の命に従わない比叡山延暦寺の討伐を命じられた明智光秀は、比叡山の焼き討ちをし、信長の命令を遂行します。
その恩賞として与えられた領地・志賀郡の比叡山東山麓の坂本に築いた城が、光秀の居城である坂本城です。
坂本城は、延暦寺を監視し、延暦寺と坂本の関係を断ち切り、琵琶湖の制海権を握るために築城された要塞堅固な城だったようです。
交通の要衝で、東国からの琵琶湖を使って運ばれてくる物資の上陸地点だった重要な場所(現在の下坂本)に建つ平城でした。
しかし、琵琶湖の水を引き入れた濠が造られ、城内から直接船に乗って安土城に行ける水城といってもよい城です。
残念ながら坂本城に関する資料などがほとんど残っていないため、城の詳細は不明ですが、ポルトガルの宣教師であったルイス・フロイスは、著書『日本史』のなかで、信長の安土城に次ぐ豪壮華麗な城として称賛しているそうです。
明智光秀はこの後、丹波侵攻の軍事拠点として天正5年から7年にかけて丹波亀山城を築城、続いて丹波国の政治拠点として横山城を大改修して福知山城とします。
坂本城址公園(北大津湖岸緑地公園)には、想像によって作成した「幻の坂本城」
の図が何枚か展示されていますよ。
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坂本城の築城は安土城に先立つこと5年で、日本初の石垣と瓦葺の大天守と小天守という2つの天守をもつ城だったと伝わっています。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変の後、坂本城は炎上。
同年、丹羽長秀(ながひで)が、秀吉の命により坂本城を再建します。
天正11年杉原家次、続いて浅野長政(長吉)が城主となりますが、天正14年に長政は、坂本城の石垣などの資材で大津城を築城し、居城を大津城に移しました。
ここで坂本城は、廃城になります。
昭和54年(1979)の発掘調査、そして平成6年(1994)夏の異常渇水によってに琵琶湖の水位が1m以上も下がったため、坂本城の内濠の石垣などが発見されました。
しかし、現在は見られない遺構です。
さらに2024年2月に宅地開発のための調査で、三の丸跡と思われるところから高さ1m、長さ30mにわたる野面積みの石垣と幅約8mの堀跡が発見され、現地説明会が行われました。
それが一般公開されると嬉しいのですが、その場所は私有地なので、難しいかもしれませんね。
どうなるでしょう。
城址公園は、城域から少し離れたところに造られています。
ちなみに、公園内にある石垣などは公園整備のために造られたものであり、残念ながら坂本城とは関係ありません。
坂本の琵琶湖を挟んだ反対側には、羽柴秀吉が長浜城を天正2年(1574)に築城、同4年には織田信長が安土城を築城しました。
安土の北側に位置する長浜城と、西側の坂本城が安土城の両翼となって安土城を守り、琵琶湖の水運と交易は信長の支配のもとに行われることになったわけですね。
上の写真は、本丸跡の近くにある明智塚です。
説明板によると、光秀の脇差名刀「郷義弘」が埋められた場所であり、明智一族の墓所との伝承がある場所ですね。
浅井・朝倉連合軍との戦いのひとつ「宇佐山城の戦い」(宇佐山城は近江神宮の近くあります)で亡くなっています。
48歳だったそうです。
上の写真は、国道を歩いていて偶然発見しました。
もちろん矢印に従って行ってみたのですが、終点は下の写真のとおり、現在石垣は見られませんでした。
渇水時で石垣が発見されたときのものでしょうかね。
(写真は筆者撮影)
*坂本城詳細
・アクセス:京阪電鉄石山坂本線・松ノ馬場駅から徒歩約15分 / JR湖西線・唐崎駅から徒歩約20分
・営業時間:24時間
・休業日:年中無休
【参考文献】
平井聖監修『城 5 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発
行)小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20
日第1版第1刷発行)、『関西の城あるき』(京阪神エルマガジン社 2019年10
月7日初版発行)、「明智光秀を歩く(チラシ)」(坂本城を考える会発行)他
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