第111回目は、淡路島にある洲本城と参りましょう。
ちなみ当ブログ管理人(筆者・花ちゃんの娘)は淡路島が大好き。
将来は移住したいなと企んでおります。
はい、では洲本城ですね。
洲本城は、淡路島の洲本市にある標高約135mの三熊山(みくまやま)山頂に築かれた、平山城です。
摂州(大阪・兵庫)から、泉州(大阪)、紀州(和歌山)におよぶ大阪湾に、紀淡(きたん)海峡を通って入って来る船舶を監視する位置にあります。
この天守は、昭和4年の天皇の御即位(御大典)を記念して建造されたもの。
昭和の城造りで、栄えある第1号のコンクリート造り模擬天守です。
「日本最古の模擬天守」といわれることもあるようです。
洲本城は、この天守がある山城(「上の城」)と城下町側の麓に構えられた居館(「下の城」)からなっています。
続日本100名城(第164番)に選定、国の史跡にも指定されていますよ。
別称は、須本城、三熊城で、私は1997年6月4日に初登城しました。
*********************************
三熊山山頂に最初に築城したのは、安宅治興(あたぎ はるおき)とも、それ以前の安宅河内守ともいわれています。
紀州熊野出身の安宅氏は戦国時代、紀伊水道から鳴門海峡、大阪湾に勢力を誇っていた淡路水軍を率いていた武将ですね。
いずれにしても16世紀前半のことだと考えられています。
洲本は海上の要衝を押さえる位置にあり、水軍の拠点とするには絶好の場所です。
安宅氏は、畿内で勢力を持っていた戦国武将で最初の天下人ともいわれる三好長慶(ながよし)の弟である冬康(ふゆやす)を養子に迎えるなどして、三好氏とは密接な関係を構築。
洲本と由良に城を築き、水軍の基地を置いていました。
しかし三好氏は、天正元年(1573)に織田信長に滅ぼされてしまいます。
安宅信康は信長につき、天正4年には信長と敵対する毛利水軍と戦っています。
しかし信康の後を継いだ弟の清康が病死し、安宅氏は滅んでしまいました。
天正9年には信長が洲本城を開城させて織田側の城としますが、翌年には信長自身が本能寺の変で敗死。
その隙を狙って、淡路の水軍の将が洲本城を占拠します。
しかし羽柴秀吉が洲本城を占拠していた水軍の将を駆逐。
家臣の仙石秀久(せんごく ひでひさ)を5万石の洲本城主として入城させました。
天正13年(1585)には秀久が讃岐高松に移封となり、代わって脇坂安治(やすはる)が入城しました。
脇坂安治は賤ケ岳七本槍の一人として名を挙げ、その後も多くの武功を重ねて淡路3万石の大名となります。
脇坂氏は、秀吉の大坂城を守るために山上の城を総石垣の城にするなどして洲本城の堅城化を進めました。
また、脇坂水軍を組織し、秀吉が起こした朝鮮での文禄・慶長の役に水軍を率いて参戦しています。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、安治は当初石田三成方につきました。
しかし、小早川秀秋に同調して家康方に寝返ります。
その結果、関ヶ原の戦いの後は本領を認められ、慶長14年(1609)に伊予大洲に移封となるまで洲本城主を務めていました。
現在の洲本市の基礎は、脇坂氏の時代に造られたと言えるでしょう。
安治が加増されて伊予大洲に移ってからは、洲本城は藤堂高虎や池田輝政の支配下に置かれます。
大坂夏の陣の戦功により、元和元年(1615)からは、阿波徳島の蜂須賀至鎮(よししげ)が淡路一国を加封され領有することになりました。
蜂須賀氏は、由良城に城代・稲田示鎮(しげたね)を置いて淡路を支配します。
しかし、淡路支配には由良では都合が悪かったのか、寛永7年(1630)には幕府に洲本移転を願い出て許可を得ます。
同8年から12年にかけて麓に新城(御殿)を築造。
由良城を廃城し、城下町を洲本に移しました。
これは「由良引け」として有名な話ですね。
これによって山上の城と一体化した「平山城」が完成しました。
稲田氏は徳川幕府から淡路仕置職(しおきしき)に任じられ、陪臣ですが14,000石の大名並みの知行を得て幕末まで淡路国を統治します。
しかし、明治3年に稲田氏の淡路藩独立と身分問題に関して蜂須賀家の家臣との間で争いが起こり、結局翌年に稲田氏は家臣とともに北海道への移住を命じられてしまいます。
********************************
仙石氏や脇坂氏によって整備された山上の洲本城は、方形の本丸、南の丸、東の丸、西の丸、馬屋などの曲輪からなっていました。
本丸には大天守と小天守があり渡櫓で繋がった連結式天守だったようです。
東の丸の南側には水の手として用水地と井戸が掘られていました。
また、洲本城に特徴的なのは、東西の急な斜面に登り石垣(石土居)が築かれていること。
これは脇坂氏が朝鮮出兵後に築いたものではないかと考えられています。
登り石垣は、松山城などにもありますね。
朝鮮の役の時に現地で学んだ築城術のようです。
これ、ものすごーく不思議な建物なのですよねえ……。
何らかの理由があって元の天守台の上に同寸の天守を建造出来なかったのかもしれません。
しかし何故一廻りも二廻りも小さい、そして奇妙な四脚の台を築いて天守を載せる形のものを建造したのか、まったく不思議です。
この天守の建造に携わった当時の人たちは、「天守」を再建するつもりはなく、大阪湾や紀淡海峡、淡路島を一望できる展望台を、天守の形で造るつもりだったかもしれませんね。
わたしはこの後、洲本城天守のような天守風展望台をいくつかの城跡で見ることになりましたが、少し残念です。
特に洲本城址は、山上に立派な石垣などの遺構が残っており、国の史跡に指定されるほどの価値のある城址。
この天守は出来るだけ早く取り壊して更地のままにしておくか、建て直したほうが良いとすら思っています。
いくら模擬天守といえども、現在では考えられない建築物ですよね……。
また建造当時は、天守に入れたのでしょうけれど、残念なことに現在は入城できません。
ちなみに野面積みの天守台の隅石は算木積みになっていますが、本丸の他の石垣の隅石はきちんとした算木積みにはなっていませんね。
かなり古い時代の石垣でしょう。
一重目と二重目の屋根に比翼千鳥破風と千鳥破風を交互に置き、最上階の屋根には入母屋破風と千鳥破風が四方に置かれ、それぞれに鯱が載せられているユニークなものです。
東に突き出した馬屋曲輪からは、紀淡海峡や和歌山方面を望めます。
絶景地であったことから通称「月見台」と呼ばれていますよ。
********************************
「下の城」と呼ばれた徳島藩御殿や徳島藩筆頭家老稲田氏の屋敷があったところには、現在淡路文化史料館があります。
資料館前の濠や石垣は当時の遺構です。
史料館には洲本城址関係の資料や、羽柴秀吉や石田三成の書状、徳島藩主や洲本城代のゆかりの品々、洲本の城下町の資料などが展示されています。
また、洲本市だけでなく、淡路島全域の歴史や文化が学べる場所となっていますので、ぜひ一度訪れてみてください。
*洲本城詳細
・アクセス:洲本高速バスセンターからは徒歩約35分(約2km)/ 神戸淡路鳴門自動車道、洲本ICから東へ約16分(約8km)
・営業時間:24時間
・休業日:なし
▼PR
【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『同 解説編』(本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)他
▼PR ゆったり楽しみましょう
▼PR お得に旅行できちゃいます