日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第85回 萩城

城址    by:photo-ac

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85回目になりました。

今回は、山口県の萩城といきましょう。

萩城は、長門(ながと)と周防(すおう)2カ国36万9000石の毛利家の本城です。

標高143mの指月(しづき)山の「詰め城」と山麓に本丸のある平城とを合わせた平山城で、海と指月山を背後の守りとした堅城ですね。

日本100名城」(第75番)に選定されています。

別称は指月城です。

萩城へは、2000年7月14日に登城しました。

城址入り口と指月山   by:photo-ac

萩城は、毛利輝元によって築城されました。

慶長9年(1604)のことで、場所は日本海に半島状に突き出た指月山と阿武川河口の三角州です。

西国の雄・毛利輝元は、関ケ原の戦いで西軍の総大将として参陣するも、戦わずして敗戦。

敗軍の総帥としての責任を問われます。

中国地方全土の8カ国120万石の領地を、わずか防長2国(山口県)の36万9000石に削封されました。

輝元は、「お家取り潰し」の難は逃れたものの、広島城を追われます。

広島城は瀬戸内海の中心地安芸に慶長4年に完成したばかりで、当時としては最大級の天守をもつ城でした。

新しい城地として、瀬戸内海側の山口や防府三田尻を希望するも、家康は許しませんでした。

萩は日本海に面した小さな漁村に過ぎず、完全な僻地だったのです。

家康は、この辺境の地に毛利家を追いやり、封じ込めたのですね。

毛利家のこの屈辱の想い、徳川家への恨みは、幕末になって発揮されます。

尊王攘夷の先頭に立ち、積年の恨みを晴らすべく討幕の急先鋒となったのです。

萩城は13代約260年間長州藩藩主・毛利家の居城でした。

幕末の文久3年(1863)に、13代藩主の敬親(たかちか)は、幕府の許可を得ないままに山口に藩庁を移転します。

この時代には、もはや幕府には毛利の勝手な藩庁移転を止める力はなかったのです。

異国船対策には、萩よりも藩領の中心地山口が最も適していると強行。

こうして輝元以来の宿願であった山口移転が達せられたのです。

そのさいに萩城は解体し、山口城築城の用材に充てられることになりました。

慶応2年(1866)以降、藩主は山口に移住します。

 

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毛利輝元公像   by:photo-ac

指月山と陸地との間を埋め立て、4年をかけて萩城は完成します。

湿地帯での築城は広島城で経験済みで、「島普請」と呼ばれる築城技術でした。

具体的には湿地帯を埋め立て、指月山周辺から花崗岩を切り出して石垣を築きます。

そして南側を除いて海に囲まれた指月山の南麓に本丸、指月山山頂に有事のさいの拠点となる詰の丸も設置。

山頂の詰めの丸には、石垣を巡らせた本丸と西側に二の丸を置き、6基の櫓で厳重な守りを固めています。

これほど守り堅固な詰めの丸は大変珍しいです。

毛利家の戦いに備える気持ちの現れでしょう。

麓の三方に濠を巡らせて方形の本丸を設け、城主の居所としました。

本丸の南西隅には付櫓をもつ白亜の望楼風の五重の天守

本丸の南方に内濠を巡らせ、その南に二の丸を突き出した形で置きます。

そして中濠で仕切り三の丸を設け、半島の根本を外濠で切断して城下町と分かちます。

三総門を開き内部を三の丸として重臣の屋敷を置く、梯郭式の縄張りです。

東を松本川、西側の橋本川に挟まれた形となっています。

城全体として櫓20基を築き、詰の丸にも櫓6基を建てるという要塞堅固な城でした

次の萩絵図を見ると攻城がいかにむつかしい城郭かがわかるというものです。

「萩絵図」(『城 6 中国』(毎日新聞社)より)

「萩城縄張図」(『城 其ノ三』(日本通信教育連盟)より)

萩城天守模型   by:photo-ac

東萩駅前に天守の模型が置かれています。

これは萩青年会議所(JC)が1987年に創立30周年記念事業として、古写真を参考にして製作したもので、当時の天守の形を正しく再現しているといわれています。

萩城天守(『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫より)

古写真によると、北側に付櫓を持っている複合式天守です。

一重目は天守台からはみ出ていて、床下が石落しになっています。

熊本城天守と同じ形ですね。

二重の入母屋破風の大屋根の上に二重の櫓を載せた望楼型天守で、一番上の階に廻縁を付けた古風な形式です。

安土・大坂城以来の格式と伝統を守った天守でした。

しかし、外壁は白漆喰総塗籠となっており、突上戸の表面には耐火性の強い銅板が貼られていて、新しい手法も取り入れられています。

明治維新まで残っていた天守のなかでは、最古の総塗籠の例です

天守は、惜しくも明治7年に払い下げられ取り壊されてしまいました。

詰の丸址石垣   by:photo-ac

天守台石垣     by:photo-ac

天守台は本丸南西隅に突き出すような形で置かれています。

高さは11m。

裾はゆったりと広がり、美しい「扇の勾配」の石垣はどっしりとして安定感があります。

数ある天守台のなかでも優美さにおいて随一といえると思います。

天守台   by:photo-ac

雁木(石段)    by:photo-ac

天守台に続く石垣の脇に設けられた雁木(※)は、全国でも最大規模のものです。

輝元がいかに防御のことを考えていたかが分かる遺構です。

※雁木・・・塀などの狭間から攻撃するために上がる石段。

天守台から見た幅の広い内濠    by:photo-ac

内濠と石垣 後ろは指月山  by:photo-ac

 

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花江茶亭   by:photo-ac

花江茶亭(はなのえさてい)は、毛利敬親安政元年(1854)頃、二の丸に建てた茶室です。

敬親は、この茶室で重臣と多事多難な時勢を論じていたと伝わっています。

明治になって城外に移築されていましたが、長州出身の政治家・品川弥次郎たちの尽力により本丸跡に再度移築・保存されることになりました。

志都岐山神社  by:photo-ac

明治になって城域は指月公園となり、明治12年本丸に藩祖・毛利元就以下歴代藩主を祀る指月山神社(現・志都岐山 しづきやま)神社)を建立しました。

昭和14年二の丸東園の庭園が復元、同40年詰の丸と菊ケ浜に面する二の丸の土塀が復元されています。

二の丸の石垣と土塀    by:photo-ac

志都岐山神社の社務所となっている旧福原家書院 by:photo-ac

高杉晋作旧邸  by:photo-ac

城下町萩は、山陰地方きっての観光地です。

明治の元勲たちを育てた吉田松陰ゆかりの松下村塾吉田松陰を祀る松陰神社など、明治維新関係の史跡も多く残っています。

町並みも当時を偲ばせる佇まいが随所に見られますよ。

特に萩城三の丸に通じる中の総門東側一帯は、町並みが城下町時代のまま保存され、武家屋敷やその長屋門、海鼠壁の土蔵や土塀など歴史を感じさせてくれます。

堀内地区と平安古(ひやこ)地区の伝統的建造物群保存地区は素晴らしいです。

江戸時代にタイムスリップしますよ。

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*萩城詳細

・住所:山口県萩市堀内字旧城1-1

・アクセス:JR山陰本線東萩駅から徒歩35分/JR山陰本線玉江駅から徒歩20分

・営業時間:8:00(11月〜3月:8:30)~18:30(11月〜2月:16:30、3月:18:00)

・休業日:無休

 

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【参考文献】

平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ参』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、中井均監修『読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)他

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