第139回は、山梨県の韮崎(にらさき)市にある新府(しんぷ)城です。
武田勝頼(かつより)が、父祖・信虎の代からの本拠地、躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)を引き払い、「新しい府中」という意味の「新府城」という名の最後の城を築きました。
しかし、城が完成してわずか68日目に勝頼自らが火を放ち焼け落ちた、悲運の城・悲劇の城です。
「続日本100名城」(第127番)に選定、国の史跡にも指定されています。
別称は、韮崎城、韮崎館(にらさきやかた)です。
新府城へは2004年9月9日に攻城しました。
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場所は釜無(かなまし)川と塩(しお)川に挟まれた、西側が比高100mを超える急崖となっている七里岩の台地ですね。
天正3年(1575)の長篠の戦いで、それまで無敵だった武田軍団は織田・徳川連合軍によって壊滅的な惨敗を喫しました。
武田勝頼は、鉄砲装備の新しい戦いに備えるために堅固な城を必要としました。
武田氏の拠点・躑躅ケ崎館は、城郭としてはあまりにも防御面で弱かったためです。
普請奉行は家臣だった真田昌幸(まさゆき)でした。
相模の北条氏政(うじまさ)が徳川家康と同盟を結び、織田信長は甲斐・信濃を目指して侵攻していたため、突貫工事で築城し、その年の内に完成したようです。
勝頼は、同年暮れには新府城に移りました。
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天正10年3月に織田軍に信濃から攻められ、家康には駿河から攻められます。
勝頼は、新府城での籠城戦を覚悟するも、大月市にある岩殿山(いわどのさん)城主であった小山田信茂(のぶしげ)の進言により、岩殿山城に籠城して再起をはかるため、自ら新府城を焼いて逃れていきます。
しかし勝頼は小山田信茂にも裏切られるのですね。
勝頼とその一族は天目山麓で自刃し、甲斐の名門・武田家は滅びます。
武田家滅亡のあと、甲斐国を領有することになった徳川家康は、あらたに甲府城を築城、新府城は廃城となりました。
新府城址は現在、韮崎市立公園となっており、曲輪跡や土塁、空堀などが遺構として残っていますよ。
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新府城は、ふたつの川に挟まれた台地上にある、比高30mの小山全体を利用して築かれています。
出展:新府城跡 / 韮崎市観光協会 「新府城と七里岩PDF」
山頂に本丸が置いてあり、巡らされた土塁は高さ1~1.5mでした。
西側に高さ1m前後の土塁で囲まれた二の丸、そして南側には三の丸が置かれました。
三の丸は中央を高さ2mの南北に走る土塁によって東西に区画されています。
西三の丸の西側は井戸曲輪です。
北側から東側の山裾に、幅4~5mの空堀と土塁を巡らせた帯曲輪で防備しています。
南東の端の斜面は大手口となり、桝形虎口とともに武田氏城郭の典型的な丸馬出と三日月堀を備え、防御力を増強。
北西の端の搦手には、桝形虎口の乾門と望楼台がある曲輪が置かれていました。
また北側の帯曲輪には、新府城独特の出構(でがまえ)が東西に置かれています。
新府城は、築城を急いだことも原因だと思いますが、石垣がありません。
土塁と空堀が主体の城郭でした。
本丸東側に、江戸時代に移された藤武神社があります。
新府城へはこの神社の石段の参道から行きますよ。
北の帯曲輪にある「出構(でかまえ)」と呼ばれる鉄砲陣地です。
*新府城詳細
・アクセス:JR中央線新府駅から徒歩約15分
・営業時間:24時間
・休業日:年中無休(本丸のトイレのみ、凍結防止のため4月上旬ごろまで閉鎖)
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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』『同 解説編』(日本通信教育連盟)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、韮崎市観光協会HP他
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