第133回は、福岡県の大野城です。
天智天皇の時代、朝鮮半島の百済を助けるために大和朝廷が朝鮮へ派兵、白村江(はくそんこう)の戦いで日本軍は唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。
大野城は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることを恐れ、大宰府を守るために大和政権によって築城された古代の山城です。
大野城は、「日本100名城」(第86番)に選定され、国の特別史跡にも指定されています。
私は2005年12月8日に登城しました。
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大野城の歴史を説明する前に、当時の状況と大和王朝の動きを少し説明しますね。
天智天皇の時代の663年に朝鮮・白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大和政権軍は大敗し、朝鮮半島から撤退します。
朝鮮からの追撃を恐れた大和王朝は、北九州から大阪までの瀬戸内海を挟んで対外防備のための城柵を築いていきました。
「11城築城された」と記録にはあるようです。
天智天皇が、朝鮮からの追撃に備えてどんな防衛策をとったのかを『日本書紀』の記述から簡単に纏めてみます。
まず、外交問題を担当していた北九州の大宰府の防衛に力が注がれました。
天智3年(664)、大宰府の前衛防衛ラインとして博多湾から大宰府に至る御笠(みかさ)川をせき止める形で、水城(みずき「続日本100名城」182番)を築きます。
水城は、福岡平野が最も狭くなったところを長さ1㎞、基底部幅37m、高さ10~14mの直線的な大土塁を築き、博多側の外濠と大宰府側の内濠を組み合わせた巨大な防塁でした。
また、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽火台(とぶひだい=狼煙台)を配備します。
これらは朝鮮の攻撃からの防御と、それを大宰府に知らせるというのが目的した。
翌年には、百済からの亡命築城者である達率(だちそち)の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)の二人の指導により、大宰府の北側、標高約410mの大野山(四王寺山)に大野城、南側の標高404mの基山に基肄城(きいじょう 「続日本100名城」184番)を築きます。
その後、天智6年には防衛の最前線の城として対馬に金田城(かねだのき)を、讃岐に屋嶋城(やしまのき)を築城。
また、大阪府と奈良県の境にある標高488mの生駒山頂には高安城(たかやすのき)を築き、これを最後の防衛線として、唐・新羅軍の侵入に備えました。
そして都を近江に遷します。
これらの古代山城は朝鮮式山城と呼ばれていますが、それは百済からの亡命築城者の指導によって築かれたもので、4~8世紀の朝鮮半島に築かれた山城と同じ形式の山城であったからですね。
数年の間に急造されたこれらの西域城塞は、日本が大和王朝によって統一されてから初めて直面した「外国との戦いに備えた国防城塞」でした。
国家的な見地から、国の力で築城された山城です。
私は2005年12月8日に基肄城、大野城、水城を攻城しましたが、初めて見る朝鮮式古代山城を驚きをもって探訪しました。
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大野城は、大宰府の背後にある大野山山頂部から山稜部、谷間まで、山全体を一続きの長大な石垣と土塁で囲んだ古代朝鮮式山城です。
これらは何と、6㎞にも及びます。
三カ所に石垣が築かれた城門と、一カ所に水門を設けています。
土塁内の区域には食料・武器庫などと思われる60余の建物があったようです。
城址には、土を固く突き固めた版築土塁や、数mの高さに積み上げられた百間石垣などの石垣が遺構として残っています。
古代の山城のスケールの凄さを実感できますよ。
平成7年から、百間石垣・大石垣・原地区土塁・大宰府口城門などが復元整備されました。
全長180mにわたって、基底幅約9m、高さ約8mの石垣が築かれています。
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*大野城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:不明
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【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社
2007年7月3日第1刷発行)、西ケ谷恭弘監修『日本の城[古代~戦国]編』
(世界文化社 1996年11月10日発行)、石井進監修『文化探訪クラブ6 城
と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)、佐々克明「天智
天皇の国防の城」(「臨時増刊 歴史と旅」秋田書店 平成4年7月10日発行
所収)他