気ままにぶらっと城跡への第20回目です。
尼崎城は「日本100名城」にも「続日本100名城」にも選ばれてはいませんし、最近までは尼崎城址の存在さえも知らない人がほとんどでした。何てことだ!!
そしてなんとですね、実のところ、尼崎城の天守は日本で一番新しいもので、2018年に築城されました。
それも個人が造り、尼崎市に寄贈された城なのです!
わお、ですよね。
別称は琴浦(ことうら)城です。
永正16年(1519)に、細川高国が尼崎城を築城したと伝わっています。
荒木村重が天正6年(1578)に織田信長に反旗を翻し、有岡城(伊丹城)から逃げ込んだ城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれていましたが、正しくは大物城です。
現在の尼崎城址とは違う場所に建っていました。
ちなみに荒木村重は戦国最大の悪武将として知られ、人気のない人ですね……。
江戸時代の元和3年(1617)に譜代大名・戸田氏鉄(うじかね)が、近江国膳所3万石から尼崎5万石で入封します。
徳川幕府から命じられて、氏鉄は尼崎に新たに築城を開始しました。
尼崎を選んだのは交通の要所であったためですね。
戦国期および織豊期の尼崎城があった場所からは少し西の方です。
大坂夏の陣のあと、江戸幕府は大坂を幕府直轄地として西国支配の拠点に。
そして、大坂の西の守りとして尼崎城の築城を命じたのです。
徳川幕府は元和元年の大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させると、「一国一城令」や「武家諸法度」を発令し、新しく城を築くことも、勝手に城を修理することも禁じました。
その状況下、元和3年には尼崎城築城とともに、高槻城の改修(公儀修築普請)を命令。
さらに5年には岸和田城の改修を命令。
そして6年に重臣水野勝成を大和郡山から転封させ、新たに福山城の築城を命令しています。
幕府は、こうして大坂城の守りの城、西国への備えの城を立て続けに譜代大名に命じ、鉄壁の守りを固めていったのですね。
尼崎城は、一国一城令の例外的な新規築城で、5万石大名の居城としては大きすぎるほどの規模の城郭でした。
後述の縄張図などをみれば、そのことが良く分かりますよ。
このことからも、徳川幕府がいかに尼崎を重視していたかが分かりますね。
参考記事▼福山城
参考記事▼岸和田城
戸田氏鉄(うじかね)は武勇の誉高い武将で、戸田家は三河以来の徳川の家臣です。
氏鉄は顕彰碑に書かれているように、寺町を含む城下町を整備し、卓越した土木技術により治水事業も進め、近世尼崎の基礎を築きました。
しかし、寛永12年(1635)に氏鉄は美濃の大垣へ移封。
青山氏は尼崎城で4代城主を務め、聖徳元年(1711)には、同じく掛川から櫻井(松平)忠喬(ただたか)が入封してきました。
また、その間に城の修復工事が常に行われていたことも分かっています。
松平氏7代目の忠興(ただおき)で明治を迎えました。
余談ですが、徳川幕府によって、尼崎城は大坂城の西の守り、そして南の守りとしては岸和田城が位置付けられていました。
そのため大坂城の守りが手薄とならないように、尼崎藩と岸和田藩は参勤交代も交互に行われていたのですね。
さらに大坂城代就任の入城儀礼にも尼崎城主と岸和田城主だけが招かれていました。
特別扱いの二藩だったのです。
かつての尼崎城は、庄下(しょうげ)川と、現在は埋め立てられて無くなってしまった大物(だいもつ)川が大阪湾に注ぐ、デルタ地帯に築かれた平城です。
直接船が尼崎城に横付けできる、まるで海に浮かんだように見える海城だったようです。
「摂津尼崎 御城下町之図」を見ると、東三の丸の下に「舟入り」「船小屋」と書かれたところがあります。
御座船小屋も近くにありました。
海に写るその美しい姿から「琴浦城」の名前で親しまれていたとのことです。
城郭は、以下の通り、渦巻き状に廻って城外に出ていく渦郭式の縄張りが最大の特徴でした。
・本丸から右周りに西から北にかけて二之丸
・東に松之丸
・南に南浜
・東西の外郭として東三之丸、西三之丸
そして三重の濠に守られた堅城です。
三之丸と南浜を取り囲むように城下町が造られ、大坂と西宮を結ぶ中国街道を取り込んでいました。
本丸御殿は、弘化3年(1846)に失火により焼失しましたが、領民の協力もあってすぐ再建されました。
本丸は方形です。
北東隅に二重の渡櫓を付属させた複合式の四重層塔型天守を置き、他の三角には三重の隅櫓(武具櫓・伏見櫓・塩噌櫓)を築き、それらを多聞櫓で結んでいました。
破風は違っていますが層塔型の珍しい四重の天守は、戸田氏鉄が次に行った大垣城の天守と同じですね。
東の虎之門、南に太鼓門、西に搦手門が置かれていました。
三つの虎口は、いずれも内桝形で防御力を高めています。
明治維新後、尼崎城の建造物はすべて払下げられ処分されました。
本丸や天守台の石垣なども、明治12年(1879)の尼崎港改修工事の時に撤去されたようです。
本丸は尼崎市立明城小学校の敷地として利用されていますが、他の曲輪や濠は埋め立てられ、市の関連施設や宅地となっています。
当時の城郭の様子は、残念ながら今では全くわかりません。
西三之丸の北部半分が尼崎城址公園となっていますよ。
2018年に出来たのは、二重と一重の付櫓と二重の多聞櫓を持つ層塔型四重五階建ての複合式復元天守です。
二重目と四重目が軒唐破風、三重目が切妻破風(パンフレットには千鳥破風と書かれていますが)があり、白漆喰総塗籠のいかにも安定感があり、美しい天守ですね。
現在の尼崎城天守は、平成30年(2018)に家電量販店の旧ミドリ電化(現エデイオン傘下)の創業者である安保詮(あぼ あきら)氏から尼崎市に寄贈されたもの。
安保氏の約12億円の私財に市民や団体からの寄付を加えて建造されました。
大きさや外観は、江戸中期の「尼崎城分間(ぶんげん)絵図」などを基に当時の姿を復元していますが、本来あった場所でなく西三之丸跡地、現在の尼崎城址公園内に築かれれています。
高さ約24mの天守です。
尼崎の歴史を紹介するパネルや、尼崎市出身の城郭画家荻原一青氏が全国の城郭を描いた「名城手拭百城」などが展示されていますよ。
バーチャル・リアリテイで再現した城下町を映す大画面や、剣術の体験、忍者や武者になりきる体験ゾーンなど親子で楽しめるところとなっています。
茶色のレンガ造りの建物は、阪神電鉄旧尼崎発電所だった尼崎レンガ倉庫です。
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櫻井神社は明治15年(1882)に建立され、尼崎城西三ノ丸址に移されました。
祀られているのは、初代櫻井(松平)信定公から尼崎城最後の城主16代の忠興公までの16柱です。
忠興は、次の説明パネルにあるように日本赤十字社を創建したお殿さまでした。
立派なお殿さまだったんですね。
境内には、尼崎城本丸御殿の棟瓦の一部と巽(たつみ)櫓の鯱などが保存されています。
元和3年(1617)の尼崎城築城に伴って11の寺が集められ、城の西側に寺町が造られました。
城域に散在していた寺を一か所に集めることによって、町衆に対する寺の影響力を弱めるとともに、高い塀に囲まれた寺を配置して城に対する防御力を高める役割があります。
法園寺は、戦国武将の佐々成政が切腹し、彼の供養塔がある寺です。
成政は、はじめ織田信長に仕え、後に秀吉に仕え肥後一国を与えられていました。
しかし、天正15年(1587)に起きた「肥後国人一揆」の責任を問われ、秀吉によって切腹を命じられたのですね。
彼は、この法園寺で切腹しています。
ここはかつて尼崎城主の祈願所であり、たびたび雨乞いの神事が行われてきました。
毎年8月に行われるだんじり祭りは、約300年続く有名な伝統行事です。
約8万人もの参拝客で賑わいます。
貴布禰神社境内には、私立大学・関西学院大学のアメリカンフットボール部の石碑があります。
他にライスボウル優勝や甲子園ボウル優勝の記念植樹もたくさん!
これは貴布禰神社の宮司さんが、関西学院大学アメリカンフットボール部の選手だったことが関係しています。
毎年、アメリカンフットボルのリーグ戦が始まる時には、必勝祈願をこの神社で行っていますよ。
※すみません、筆者の花ちゃんは関学のアメフト部ファンなもので、尼崎城と関係は薄いのですが記載いたしました…。
(写真は筆者撮影)
尼崎城の公式ページです!YouTubeも公式サイトがあり、イベントの様子やドローンでの撮影動画などが見られますよ!
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*尼崎城詳細
・アクセス:阪神電鉄本線・尼崎駅から徒歩5分
・営業時間:9:00〜17:00(最終入城16:30)
・休業日:月曜日 ※ただし月曜日が祝日等にあたる場合は開館し、翌日火曜日が休館/年末年始(12月29日~1月2日)
【参考文献】
西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、「尼崎城パンフレット」、「尼崎城を知る」(尼崎市)他
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