96回目ですね、今回は福井県にある福井城です。
福井城は、姫路城にも匹敵する規模の広大な城郭でした。
残念ながら、現在は本丸周辺の幅30mを誇る濠と高石垣だけが遺構として残っている平城です。
元の北庄城は、戦国武将・柴田勝家(しばた かついえ)が美貌の愛妻お市の方とともに最後を遂げたことでも有名な城ですね。
その城域を取り込んで築城されたのが、福井城です。
別称は北庄城(きたのしょうじょう)、福居城(ふくいじょう)、葵城(あおいじょう)。
「続日本100名城」(第137番)に選定されています。
福井城へは2001年8月6日に初登城し、それ以後も再訪しています。
今回は青春18きっぷを使って、2022年9月5日から1泊2日で福井県の3城址を訪ね、6日に福井城を再訪しました。
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福井はかつて北庄と呼ばれ、越前平野の中心地でした。
北庄に最初に築城したのは、14世紀の南北朝時代。
朝倉頼景(よりかげ)だったといわれています。
朝倉氏の本拠地の一乗谷を守る支城でした。
天正元年(1573)に朝倉氏を滅ぼした織田信長は、同3年に一向一揆を抑え、ようやく越前を平定します。
信長は足羽川(あすわがわ)と吉野川、北側に九頭竜川が流れ込む北庄を越前の新拠点として、自ら築城。
完成した北庄城を柴田勝家に与えます。
柴田勝家が縄張りをしたという説もありますよ。
勝家の北庄城での9年間の治世は、築城工事に明け暮れたと伝わっています。
この当時、越前は背後を上杉謙信に脅かされていて、北庄城は信長にとっては北の要の城だったからでしょう。
本丸にはなんと九重の大天守が聳えていたことが、天正11年の羽柴秀吉の北庄城攻めを記した手紙で分かっているようです。
同年の賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れた柴田勝家は、北庄城を炎上させ、信長の妹お市の方とともに城内で自刃して果てました。
この北庄城の本丸の位置は不明ですが、現在の柴田神社の周辺だったと考えられています。
現在の福井市の基盤は勝家の時代に築かれています。
勝家亡き後の北庄は、丹羽長秀・堀秀政・青木一矩らが領有しました。
しかし関ヶ原の戦いの後、徳川家康はこの地に次男の結城(松平)秀康を封じます。
関ケ原の戦いの翌年・慶長6年から、北庄城を含む地に家康自らが新たに縄張りをして北庄城を大改築します。
秀康は、若狭の一部と信濃の一部を合わせて68万石の太守として治めました。
この改築には諸国の大名が動員(いわゆる天下普請)され、同11年には大城郭が一応の完成をみます。
方形の本丸を二の丸と三の丸、さらに二重の外曲輪で囲むという輪郭式の壮麗をきわめた大城郭です。
南の足羽川と吉野川が天然の外濠となり、荒川の河流を改修して新川を東の外濠に、旧の河道を利用して百間堀としました。
本丸北西隅の天守台石垣上には四重五階の大天守が、三隅には二重の坤(ひつじさる)櫓・艮(うしとら)櫓・巽(たつみ)櫓が建っていたようです。
天守は、一階と二階の間に屋根を付けない外観四重で内部は五階、最上階には高欄が付けられた望楼型天守だったと考えられています。
屋根は丸岡城と同じく笏谷石の石瓦で葺かれていました。
秀康は越前松平氏を名乗り、3代・松平忠昌(ただまさ)のとき、「福居(のち福井)城」と改名されました。
しかし、寛文9年(1669)の大火災で、城下町の大半と天守をはじめとする櫓や御殿などほとんどが焼け落ちてしまったのです。
復興に3年を要したようですが、天守は再建されませんでした。
本丸石垣上の新たに再建された三重櫓の坤櫓と巽櫓が聳え立ち、天守の代用となっていました。
福井城の城主は、代々松平家が受け継ぎます。
途中藩主の乱行や乱心などがあり、次第に知行は減らされましたが、17代270年間松平家の居城として明治を迎えます。
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福井神社にある松平慶永(春獄)の像です。
幕末の四賢公の一人に数えられた松平慶永(よしなが 春嶽)はひっ迫していた藩財政を立て直すために由利公正(ゆり きみまさ)を登用、政治顧問として熊本藩士の横井小楠(よこい しょうなん)とともに富国政策を推進していきます。
井伊直弼(なおすけ)によって一度は隠居処分を受けましたが、直弼が桜田門外で殺害されると再び幕政に復帰。
将軍後見職の一ツ橋慶喜(よしのぶ)とともに幕政改革を進めたことは有名ですね。
御廊下橋を渡ってきて正面に壁があり、そこから左回りして右側の棟門へ。
その中は小さな桝形になっており、櫓門が建てられています。
桝形の石垣上の土塀は内部に砂が塗り込められた頑丈な造りです。
土塀の下半分は笏谷石の板石が張られており、鉄砲狭間が設けられています。
山里口御門は、敵の侵入を食い止める鉄壁の守りの門です。
御廊下橋は、平成20年に福井城築城400年を記念して当時の姿に復元、平成30年には山里口御門が福井城址公園整備の一環として復元されました。
城好きには、この復元はたまらなく嬉しいものです。
山里口御門は、本丸の西側の山里丸にあった御座所(藩主の生活の場)から御廊下橋を渡った入口の門です。
御廊下橋は、本丸に入る藩主専用の屋根がついた格式高い橋のこと。
福井城の高さ約7mの高石垣は、この地方特産の笏谷石(しゃくだにいし)の切石が使われています。
きれいに平行線が揃った布積みの切込接の石垣です。
さすが江戸幕府の力ですね。
昭和23年の福井地震で、一部崩壊した石垣から多くの刻印が発見されています。
諸国の大名が普請に動員された証拠ですね。
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城跡の濠は埋め立てられ、石垣も破壊して市街地としました。
そのために本丸の濠と石垣だけが残り、昭和56年には本丸跡に福井県庁が建設されています。
平成5年には、戦災で焼失した旧藩主の別邸・養浩館(ようこうかん)が復元されています。
本丸から北西へ400mほどの所です。
ぜひ行ってみてくださいね。
庭園は国の名勝となっており、「御泉水(おせんすい)」の名で市民に親しまれていますよ。
【1泊2日の福井県4城址巡り】
2022年9月5日から1泊2日で福井県の4城址巡りを楽しみました。
青春18きっぷを使っての泊りがけの城址巡りは本当に久しぶりで、ワクワクしましたよ。
2022年の9月5日は、天空の城としても有名な越前大野城を探訪。
翌9月6日は、福井駅前から京福バスに乗って一乗谷に行きました。
1998年6月12日に初めて来てから24年ぶりの再訪です。
復元された町並みを散策し、城下町では珍しい城戸もゆっくり見学しました。
バスで福井駅前に戻り、駅前のビルにある「あみだそば福の井」で焼き鯖そばの昼食を。
そのあと福井城址へ行きました。
広い水濠と高石垣で囲まれた本丸跡は現在福井県庁となっていますが、天守台などの遺構もあり、なかなか見ごたえのある城址です。
今回は、平成20年に復元された福井城御廊下橋を見るのも楽しみでした。
福井城址を探訪したあと、駅前近くにある北庄城址にも行きました。
柴田神社が再建整備され、柴田勝家像、勝家とともに自刃したお市の方、そしてその子供の三姉妹像が建立されています。
小谷城主・浅井長政との間に生まれた茶々、お初、お江(ごう)の三姉妹。
茶々は秀吉の側室淀殿となり、お初は京極高次の妻、お江は二代将軍秀忠の御台所(みだいどころ=将軍の妻の呼称)とそれぞれなりましたね。
戦国から江戸時代の歴史に大きな影響を及ぼしました。
※photo-acと書いていないものの写真は筆者撮影。
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*福井城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編著『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真第図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日発行)、「福井城 山里口御門」パンフレット」「福井県庁周辺マップ」(福井県総務部財産活用課発行)他
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