日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第46回 和歌山城

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和歌山城 by:photo-ac

46回目です。

和歌山城は、和歌山県の有名なお城ですね。

平山城で、別称は虎伏(とらふす)竹垣(たけがき)

2006年に「日本100名城」(第62番)に選定されています。

 

和歌山城紀州徳川家の居城です

紀州徳川家は水戸や尾張の徳川家とともに徳川御三家と言われました。

五代目の和歌山藩主・徳川吉宗が徳川八代将軍になり大活躍したことは有名ですね。管理人は「暴れん坊将軍」の大ファンでした!!

その後14代将軍の家茂も紀州徳川家から出ています。

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徳川吉宗像   by:photo-ac

和歌山城は、豊臣秀吉紀州攻めの本拠地として虎伏山に築城、若山城と称したのが始まりだそうです。

このときの普請奉行は藤堂高虎ですね。

秀吉紀州平定後、弟の秀長(ひでなが)に紀伊・和泉・大和の三国の支配を委ねました。

地を「和歌山」と命名

根強い抵抗勢力のいた紀伊国内と紀伊水道の水軍にも備えるため、和歌山に留まって秀吉自らが縄張りを行ったと言われています。

秀長は本城が大和郡山城だったので、家臣の桑山重晴(しげはる)を城代において城郭の整備に当たらせます。

秀長の時代の城郭は、紀ノ川と和歌川に挟まれた標高48mの虎伏山山頂に本丸、そして南麓に二の丸が置かれていました。

その後、関ヶ原の戦いの軍功により、紀伊国37万石は浅野幸長(よしなが)の所領となります。

和歌山城に入城した幸長は、内濠と石垣の改修に取り掛り城域を拡大。

併せて城下町の経営に力を注ぎ、今日の和歌山市の基礎を築きました。

しかし、元和5年(1619)に広島城へ移封となります。

代わって入城したのが、徳川頼宜です。

以後和歌山城は、徳川幕府の西国支配の拠点をも担うことになり、御三家紀州徳川家ができました

頼宜は入城後、将軍秀忠から2千貫を与えられ、藤堂高虎の助言により城郭の大拡張・修築を行います。

また城下町の整備を図るとともに、新宮(しんぐう)、田辺、松坂に支城を置き、領国経営をしたのですね。

徳川御三家の一つ、紀州徳川家の誕生です✨

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和歌山城は、 1995年7月15日に登城しました。

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     徳川時代和歌山城縄張図(『日本の城 名城探訪ガイド』より)

和歌山城は、虎伏山の2つの峰を削って天守曲輪のある本丸と本丸御殿のある曲輪を置き、麓に二の丸、西の丸、砂の丸、南の丸を配しています。

それぞれの曲輪には高石垣が築かれていますが、その石の積み方は度重なる改修を反映してとても多様です。

野面(のづら)積み、打込接(うちこみは)ぎ,切込接(きりこみは)ぎの手法の違いを実際に目にできるため、石垣の勉強をするにはもってこいの城ですよ。

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天守   by:photo-ac

天守は弘化3年(1846)に落雷で焼失しましたが、御三家の居城ということで特別に許されて4年後に再建されます。

昭和20年(1945)まで現存していた旧国宝指定の華麗な天守は、惜しくも空襲で焼失。

現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。

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天守と右小天守   by:photo-ac

なんと、幕末に天守を再建した時の天守大工棟梁である水島平次郎の子孫の家に、詳細な天守図と「御天守御普請覚帳」が残っていたのですね。

そのため、かつての外観がほぼ完全に再現できたのです。素晴らしいっ!!

大・小天守と乾櫓、続多聞櫓、二の門が復興されました。

本丸上の天守曲輪に石垣を築き、その上に三重の大天守があります。

天守は二重の小天守を従えており、東隅に建てられました。

そして二重の乾櫓と二重の二の門櫓を、多聞櫓で結んでいる層塔型連立式天守です。

天守は三重三階、白漆喰総塗籠。一重目には比翼入母屋破風、二重目に軒唐破風と入母屋破風の出窓を持ち、三重目には高欄が付けられた美しい外観となっています。

それにしても一重目の曲線を持った石落としは巨大です。

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無骨な野面積みの石垣と巨大な石落し by:photo-ac

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天守への入口のある小天守と大天守  by:photo-ac

一の橋大手門は和歌山城の大手門。

城の北側東寄りにあります。

一の橋とともに昭和57年に復元されました。

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一の橋大手御門  by:photo-ac

下の写真は、連立式天守への入り口である櫓門形式の二の門。

楠門とも言います。

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二の門  by:photo-ac

二の門櫓と多聞櫓の間にあり、写真で分かるように門を入ると突き当りで、左に折れて石段を上がらないといけないようになっています。

防御力の優れた門構えです。

敵の攻撃を受けた時には、石や土で埋めれば入れなくなります。

 

平成18年(2006)に再建された西の丸御殿と二の丸御殿を結ぶ廊下橋です。

藩主とお付きの者だけが行き来するために架けられた橋で、外からは見えないように壁と屋根が設けられています。

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御廊下橋と天守  by:photo-ac

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御橋廊下内部 by:photo-ac

渡櫓門形式の岡口(おかぐち)は城内に残る数少ない江戸初期の建造物で、国の重要文化財に指定されています。

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岡口門   by:photo-ac

岡口門は南の丸の東からの入り口です。

浅野時代は大手門でしたが、徳川氏によって搦手(からめて)門(裏門)に代えられました。

桝形ではありませんが、前は水濠で両脇に櫓が上がり、厳重な守りとなっています。

この岡口門と砂の丸にある追廻門はともに重要文化財、そして現存遺構です。

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追廻門    by:photo-ac

西の丸庭園、別称紅葉渓(もみじだに)庭園は、頼宜によって天守北西に大名庭園として築かれた池泉回遊式の庭園。

国の名勝に指定されています。

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西の丸庭園   by:photo-ac

別名の紅葉渓庭園の名の通り、秋の紅葉は見事です。

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天守から和歌山市の町を望む  by:photo-ac

 

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和歌山城の公式サイトがありましたので、のせておきますね。

公式サイトの中にある「おもてなし忍者」は子供さんに良いですね。

家族で夏に行ったときも忍者がいて、子供が楽しんでいましたよ。

バレバレの「隠れ蓑の術」とかね…。

 

和歌山城詳細

・住所:和歌山県和歌山市一番丁3番地

・アクセス:JR和歌山駅からバスで10分(公園前下車すぐ)/南海和歌山市駅から徒歩で10分

・営業時間:9:00~17:30 (入場は17:00まで)

・休業日:12月29日~12月31日

 

 【参考文献】

平井聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年㋆15日発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)他

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