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お城大好き雑記も70回目になりました!
勇壮なだんじり祭で有名な岸和田は、14世紀初めの頃、楠正成(くすのき まさしげ)の一族・和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としました。
そのことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりとなったそうですよ。
「岸和田城 いま むかし」という本に書かれていました。
岸和田城は、紀州街道と大阪湾の水上交通を押さえた要衝の地に築城された平城です。
別称は千亀利(ちきり)城で、「続日本100名城」(第161番)に選定されています。
私は岸和田城に、2021年11月19日に再登城してきました。
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戦国時代の頃までは、海岸沿いの海に突き出た段丘の上に城が築かれていました。
現在の二の丸の前まで海が迫っていたそうです。
絵図によると、16世紀頃の岸和田城は現在の二の丸が本丸で、右に土橋を渡った所に馬具の鐙(あぶみ)のような形の水濠がありました。
これはかつて二の丸が本城だったころ、城から出撃するときに敵からの攻撃を防ぐための馬出(うまだし)という、城郭施設の名残と考えられます。
羽柴秀吉には、天下統一への過程で紀州の根来衆や雑賀衆などの一向宗勢力を押さえるための前線基地の城が必要でした。
そのため岸和田城に、家臣の中村一氏(かずうじ)を城主として入ます。
そして一向宗勢力を滅ぼした後、秀吉は叔父の小出(こいで)秀政を城主として天正13年(1585)に岸和田城に入れます。
同15年ごろから、秀政は天守を始めとする城郭の整備や城下町の整備を進め、近世城郭に改修。
慶長2年(1597)に完成した天守は五重だったようです。
天守の形はいくつかの絵図に残っていますが、詳しいことはわかりません。
正保2年(1645)に作られた絵図には、熊本城や松本城のように、天守の壁には立派な腰板が貼られている姿が描かれています。
このことからおそらく腰板張りの黒っぽい天守、典型的な織豊期の天守建築だったのでしょう。
また、天守台の大きさから岡山城位の天守だったのではないかと推測されています。
3万石の秀政が築いたにしては、相当立派なお城だったんですね。
豊臣氏が滅び、元和5年(1619)に丹波篠山から5万石で松平康重(やすしげ)が入封します。
二の丸に伏見城の櫓の移築が行われ、海浜部に防潮石垣を築くなど城郭や城下町の普請と整備がすすめられ、江戸時代を通じての城郭がこの時期に完成しました。
寛永17年(1640)には、岡部宣勝(のぶかつ)が高槻城から6万石で入城。
岡部宣勝が岸和田城に入城したのは、親藩の紀州藩のお目付け役ですね。
いわゆる「紀州がため」です。
紀州の徳川頼宜(よりのぶ)が幕府に歯向かうつもり、つまり謀反の疑いありということで、その押さえのためだったと言われています。
宣勝は城の大改築を行い、外郭を整え、紀州街道を城下に組み入れました。
その後は岡部氏13代で明治維新を迎えます。
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岸和田城の天守は、文政10年(1827)の落雷で焼失しました。
翌年天守と多聞櫓の再建を江戸幕府に願い出ますが、倹約令が藩に出されるなど極度の財政難のなか結局再建されずです。
上の写真、説明パネルのこの絵図は、岡部氏が江戸幕府に提出したものです。
すぐ前が海だったことが分かります。
図の下の海岸に並行して紀州街道が外曲輪の町家内を通り、街道に接する外曲輪の東西に堺口門と伝馬門を設置、街道からの出入りを警備していたのですね。
紀州街道を石垣で囲まれた城郭内に取り込み、大阪湾に面して城下町が広がっていました。
上の絵図をご覧ください。
本丸は水濠に囲まれ、海岸寄りに馬出のように設けられた二の丸と土橋で繋がっています。
本丸の水濠を隔ててコの字型に二の曲輪が取り囲み、その外周を水濠・三の曲輪・さらに外曲輪と幾重にも本丸を囲む形をした、大変厳重な輪郭式の縄張りでした。
二の丸には普段藩主が居住した二の丸御殿が建てられ、西北角(⑬)には京都の伏見城から移築した伏見櫓が建っていました。(写真の文字が小さくてわかりにくくてすみません)
いずれも明治維新の時に取り壊されてしまいます。
ちなみに「伏見櫓」という櫓は、日本のいくつかの城にあります。
第59回で紹介した福山城の伏見櫓は唯一の現存伏見櫓です。
他には、江戸城、大坂城、膳所城、尼崎城にあったことが知られています。
江戸城や大坂城の伏見櫓は、実際には伏見城からの移築ではありません。
しかし福山城は西国の要、そして尼崎と岸和田は大坂城とともに畿内の重要拠点の城として位置づけられています。
つまり初期の徳川幕府にとって戦略上最重要な城には「伏見櫓」が配置されていたわけですね。
家康から三代の家光までが、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けています。
徳川幕府から岸和田城に伏見城の櫓が与えられたということは、岸和田城の重要性が徳川幕府によって認められているということ。
将軍家御拝領という、天守に匹敵する格式をもった櫓だったと言えるでしょう。
渡櫓門 by:photo-ac
現在の天守と小天守は、昭和29年に鉄筋コンクリート造で建造されたもの。
記録や史料に基づく復元ではないので、模擬天守です。
三重目まで届く大きな入母屋造りの上に二重の望楼部を置き、比翼入母屋破風、軒唐破風、さらに最上階には高欄と飾りの華灯窓を四方の壁に取り付けています。
いかにも、これぞ天守建築と言わんばかりのデザインの白漆喰総塗籠の美しい天守です。
これは驚きですね。
博物館として天守を再建する事例は多くありますが、図書館として建造された天守は初めてです。
岸和田市民の自慢の図書館だったでしょうね。
現在は郷土資料館として岡部家の遺品や武具・古文書などを展示しています。
また昭和44年には城壁、城門と櫓が再建されました。
天守の前庭には「八陣の庭」と呼ばれる珍しい庭園があります。
これは庭園設計者として有名な重森三玲(しげもり みれい)氏によって設計監督され、昭和28年に作庭されたものです。
室町時代以前の城郭平面図をもとに、中国三国志の英雄として名高い諸葛孔明(しょかつこうめい)の八陣法をイメージして設計されています。
大将を中心に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を8組の石組みで表現したものです。
和歌山県沖ノ島産の岩を用いた石組みを白砂で囲み、これに砂紋を描いて海中の蓬莱を表現。
地上からは360度どの角度からも鑑賞できるだけでなく、天守の最上階からの俯瞰をも意識した設計です。
国指定名勝ですよ。
土橋で結ばれた二の丸にある多聞櫓です。
中はトイレ。
珍しいですが、良いアイデアだと思います。
本丸、二の丸は岸和田城公園です。
二の丸には心技館という武道館が多聞櫓風に建造され、このトイレの多聞櫓とともに城郭の雰囲気を出しています。
本丸の石垣の下に「犬走り」石垣と呼ばれる周堤帯があります。
軍事的な意味から考えると本丸への敵の攻撃拠点となるため、数少ない石垣の形です。
これは地盤が弱く上部の石垣が崩れやすいので、補強するために造られたものですね。
岸和田城本丸の東隅の石垣が大雨のため崩れたことがありましたが、崩れた石垣の裏側から百数十基の墓石が見つかりました。
いわゆる転用石です。
大和郡山城や福知山城にもたくさんありますね。
出来るだけ早く築城工事を進めるために、手っ取り早く大量に集められる墓石は石材として都合が良かったのでしょうね。
墓石には法名や命日が刻まれていて、本丸石垣が築かれた年代が永禄年間(1560年頃)以後であることが判明しました。
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三の丸には岸和田高校、グランドがあります。
三の丸の岸和田高校の近くにある、立派な岸城(きしき)神社の写真です。
以下は公式の特設サイトです。歴史や写真など、いろいろ楽しいですよ。一度ご覧ください~。
*岸和田城詳細
・アクセス:南海本線「岸和田駅」より徒歩13分/「蛸地蔵駅」より徒歩7分
・営業時間:10:00~17:00
・休業日:毎週月曜日(ただし月曜日が祝日・休日の場合、及びお城まつり期間中(4月1日~15日)は開場 )/年末年始(12月29日~1月3日)
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【参考文献】
平井聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、パンフレット「岸和田城 いま むかし」、「岸和田史跡めぐりリーフレット」(岸和田市教育委員会)、『城 其ノ一』及び『同解説編』(日本通信教育連盟)他
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