日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第45回 新発田城

▼PR

 

f:id:sekimeitiko:20210417153534p:plain

            新発田城   by:photo-ac

45回目は、新潟県新発田城です。

平城で、別称は菖蒲(あやめ)城、狐の尾引(きつねのおびき)城、舟形(ふながた)とたくさんあります。

2006年に「日本100名城」(第31番)に選定されています。

 

新発田(しばた)氏の古城をもとに、豊臣秀吉重臣溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)が築城を開始し、50年の歳月を費やして新しく完成させたのが新発田城

幕末まで溝口氏12代の居城でした。

今に残っている海鼠(なまこ)壁の櫓は往時の景観を偲ばせて美しいですよ。

また大変珍しい3つの鯱を持つ御三階櫓が、平成16年(2004)に辰巳櫓とともに再建されて話題を呼んだ城です。

f:id:sekimeitiko:20210417154625p:plain

              御三階櫓    by:photo-ac

 

はい、では歴史から見ていきましょう。

新発田城は、慶長3年(1598)に6万石で入封した藩祖・溝口秀勝が作ったお城です。

新発田藩居城として作り始め、50余年の歳月をかけて完成しました。

完成時には三代藩主・溝口宣直(のぶなお)になっていました。

溝口秀勝は、もともとは織田信長重臣丹羽長秀(にわ ながひで)の家臣。

豊臣秀吉政権下で大名となり、加賀大聖寺城主になったのち新発田城主となります。

関ヶ原の戦いでは徳川家康側で戦い、そのまま所領をもつことになります。

溝口氏は極めて稀有な大名ですよ。

というのは、織田信長豊臣秀吉恩顧の大名であるにかかわらず、関ヶ原の戦い以前からの領地を一度も変わっていません。

溝口氏が12代274年間藩主を勤め、そのまま明治維新までいきました。

これはつまり、歴代の藩主がよほどお家安泰を願った賢明な振る舞いをする殿様だったということでしょう。

274年間ずーっと同じ家がおさめていたとは…本当に珍しいことです。

f:id:sekimeitiko:20210417154503p:plain

    本丸表門に続く土橋と旧二の丸隅櫓(左)     by:photo-ac

 

新発田城へは2002年8月23日に登城しました。

ちなみに本丸跡は現在陸上自衛隊の駐屯地となっているため、表門を少し入ったところまでしか見学できません。ぬお~残念!!

この地は長く新発田氏が本拠地としていて、かなり大規模な城館を構えた枢要の地でした。

新発田川による自然堤防に守られているうえ、新発田川の本流と支流を外濠として利用できました。

さらに河川による輸送の便も良いという、有利な条件を備えています。

新発田氏時代の本丸は、「古丸」として痕跡をとどめていますよ。

 

新発田城は、加治川が形成した扇状地上に位置する典型的な平城。

東西に長く、不等辺五角形の本丸には表門を中心に石垣を築いて内濠で囲んでいます。

さらに本丸の外側に二の丸、二の丸と繋がった反対側に古丸、二の丸の南に三の丸が設置。

変形連郭式の縄張りですね。

各曲輪は水濠によって隔てることで防御力をアップしており、水濠に浮かぶ船のような姿から「舟形城」とも「浮船城」とも呼ばれます。

南側を除く三方が湿地帯になっているため、会津・羽前街道側となる南面の防御を重視した縄張りとなっているのですね。

当初、本丸の南面と西北側だけに石垣が築かれていたようですが、寛文8年(1668)の大火で本丸と二の丸の大半を失い、修復の際に大半の曲輪が石垣造りに改修されたようです。

 

両側の石垣の上に櫓を渡した渡櫓門が本丸表門(重要文化財)です。

f:id:sekimeitiko:20210417154415p:plain

本丸表門   by:photo-ac

門が石垣より少し奥に引っ込んでいるのは、石垣の上に多聞櫓か土塀があり、そこから表門から入ろうとする敵を横矢掛りで攻撃できるようにするためでしょう。

天守はもともと築かれなかったようです。

寛文8年の大火のあとの復興工事のさいに、本丸西南櫓を二重から三重に改めて再建して「御三階櫓」と称し、天守の代用としました。

       復元された御三階櫓   by:photo-ac

切妻破風の出窓を持ち、建物の腰まわりにある瓦張りの黒の海鼠壁と漆喰総塗籠の白壁がとても美しい櫓ですね。

さらに珍しい点は、三階櫓の最上層の屋根が丁字形で三つの入母屋破風があり、そこに3匹の鯱を乗せていること。

ほかに例のない櫓です。

明治になって取り壊されましたが、平成16年(2004)に辰巳櫓とともに復元されました。

f:id:sekimeitiko:20210417154859p:plain

右から辰巳櫓、本丸表門、旧二の丸隅櫓 by:photo-ac

復元された辰巳櫓は、切妻破風の出窓が付けられた白漆喰総塗籠の二重櫓です。

旧二の丸隅櫓とはタイプの違う美しさがあります。

旧二の丸隅櫓(重要文化財)は、切込接ぎの石垣の上に建つ二重二階隅櫓で寛文8年の火災ののちに再建されたものです。

かつては二の丸にありましたが、昭和34年(1959)の解体修理時に現在の本丸鉄砲櫓跡に移築されました。

飾り破風などが全くない層塔型の櫓ですが、建物の腰まわりにある瓦張りの黒の海鼠壁と漆喰総塗籠の白壁、隣に寄り添う桜との取り合わせがとても良いですね。

雪国ならではの備えであるとともに美しい意匠ともなっています。

        旧二の丸隅櫓     by:photo-ac

城下町は、城の南側にあった中世からの城下町を基盤に造られました。

城の近辺は武家屋敷、その南側に町家が続き、南東には寺院が集められています。

新発田の城下町は会津街道の町でもあり、月に12回も開かれた定期市には会津藩の人々も訪れたと言われています。

たいそうにぎやかな市が立っていたのでしょうね。

また外濠の役目を果たしていた新発田川は交通路としても大変重要な役割を果たしていました。

領内の米を新発田川を使って新潟に運び、北前航路で上方大坂にまで運搬、金銀に替えています。

溝口氏歴代の藩主は、新田開発や河川改修に勢力を傾け、日本有数の穀倉地帯に育て上げ、豊かな財政を築きました。

現在城の南東に残る名園清水園は、新田開発に成功した三代藩主溝口宣直が、豊かな財政を背景に造った大名庭園です。

また、新発田川を挟んで足軽長屋群も残っていますよ。

藩政時代の様子を偲べます。

 

****************************

 

 高田馬場の決闘で有名な堀部安兵衛(ほりべやすべえは通称 本名は中山武庸 たけつね)は、新発田の生まれです。

f:id:sekimeitiko:20210417155614p:plain

表門の前にある堀部安兵衛像 by:photo-ac

安兵衛は父の死後浪人となり、家名再興のために江戸にでます。

高田馬場の決闘では「18人斬り」と噂された剣客として名を馳せました。

安兵衛に惚れ込んだ赤穂藩士の堀部金丸が娘・ほりとの結婚を要請し、安兵衛は堀部家の婿養子となります。

その後赤穂浪士四十七士に加わり、吉良邸討ち入り時に江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダーとして活躍したことは有名ですね。

新発田の市民の間では、今なお堀部安兵衛は英雄的存在となっています。

 

【1泊2日の新潟県城址巡り】

2002年8月23日から、夏休みとして1泊2日で新潟県の4城址巡りを楽しみました。

23日は東日本では珍しい総石垣造りの村上城(「続日本100名城」第131番)をまず探訪。

山頂にある高石垣の天守台は見事なものでした。

続いて新発田城を探訪。

翌24日はまず上杉謙信の居城で五大山城の春日山城(「日本100名城」第32番)を探訪。

山城のすごさに驚きました。

それから平成5年(1993)に桃山風に復興された、御三重櫓のある高田城(「続日本100名城」第132番)を訪れました。

高田城は「日本さくら名所100選」にも選ばれています。

探訪したのが8月でしたので濠に映える桜の花の姿はもちろん見られませんでしたが、濠に映った三重櫓と桜は美しいものでした。

 

新発田城詳細

・住所:新潟県新発田市大手町6

・アクセス:【車】日本海東北道聖籠新発田ICよりR7経由、村上方面へ10分、城北町交差点右折

【電車】JR白新線羽越本線新発田駅より徒歩約25分

・営業時間:9時~17時・4月~11月まで

・休業日:12月~3月

 

【参考文献】

平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行))、『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年㋆15日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)他

▼PR

 

▼PR