徳川家康、織田信長とゆかりの城を紹介してきて、今回は豊臣秀吉です。
太閤さんですね、成り上がりを地でいった戦国武将!
豊臣秀吉は生涯にたくさんの城を造りました。
初めて城持ち大名となって築城した長浜城の他、天下統一を誇示する大坂城が有名です。
そしてまた、当然ながら戦いのための城も造っていますよ。
たとえば出世のきっかけとなった墨俣城や朝鮮出兵のための名護屋城などですね。
今回は、秀吉ゆかりの10城・城址の紹介です。
探訪のモデルプランは書きませんので、ご自身の都合でお好きにそれぞれの城を探訪してください。
城は当時のままのものは一つもありませんが、それぞれの歴史があり、興味深いものがあります。
バスも載せますが、運行状況はそれぞれのバス会社のホームページで確認してくださいね。
念のためが大切です、念のため。
- *豊臣(羽柴)秀吉とは? 天文6年(1537)~慶長3年(1598)
- 城その1・墨俣城(すのまた 一夜城 岐阜県安八郡墨俣町)
- 城その2・横山城(滋賀県長浜市石田町)
- 城その3・長浜城(滋賀県長浜市)
- 城その4・姫路城(「日本100名城」第59番)
- 城その5・山崎城(天王山城・宝寺城)(京都府乙訓郡大山崎町)
- 城その6・大坂城(「日本100名城」第54番)
- 城その7・聚楽第 (じゅらくだい・じゅらくてい 京都市上京区一条堀川周辺)
- 城その8・石垣山城 (石垣山一夜城「 続日本100名城」第126番) 小田原市早川)
- 城その9・名護屋城(「日本100名城」第87番 佐賀県唐津市)
- 城その10・伏見城(京都市伏見区桃山御陵)
- *秀吉は戦のため以外にも築城をした
- *こちらもどうぞ
*豊臣(羽柴)秀吉とは? 天文6年(1537)~慶長3年(1598)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人、(初代)武家関白、太閤。
肩書がいっぱいですね、彼は本当に波乱万丈の人生をいきましたが、戦国武将の中では珍しく、天寿をまっとうした人です。
最初の名前は木下藤吉郎。
その後木下秀吉になり、後に丹羽長秀と柴田勝家のような人物になりたいという思いから羽柴秀吉に改めました。
天正13年(1585)に関白となり、藤原に改姓。
翌14年には太政大臣となって正親町(おうぎまち)天皇から豊臣の姓を下賜され、これ以後豊臣秀吉と名乗ります。
30年くらいで6回ほど名前を変えていることになりますね。
貧しい出生ですが、信長の草履取りから身を起こし、織田信長の家臣となります。
信長の死後、明智光秀や柴田勝家らを破り、清須会議で織田家内部の勢力争いに勝って信長の後継者として政権を掌握。
天下統一後は太閤検地や刀狩令、石高制などの全国に及ぶ多くの施策で国内の統合を進めます。
朝鮮出兵の最中に、嗣子秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没しました。
城その1・墨俣城(すのまた 一夜城 岐阜県安八郡墨俣町)
永禄9年(1566)、織田信長の命により、長良川の美濃側の岸に木下藤吉郎が築いた城です。
斎藤氏の本城・稲葉山城を攻める拠点である「対(たい)の城」(敵の城を攻めるにあたり、攻撃の軍の拠点として築いた城)として作ったのですね。
筏で組んだ建築資材を長良川に流し、一夜で組み上げて城を築いたことから「一夜城」といわれたという伝説がありますが、実際は約2,000人を動員して三日がかりで完成したそうです。そらそうですよね…。
この城を拠点にして稲葉山城攻略が成功し、この功により秀吉は墨俣城を預かる武将に取り立てられました。
ちなみに藤吉郎の出世の糸口となったこの墨俣城は、天正14年(1586)の大洪水で流失してしまったといわれています。
しかし、平成3年(1991)一夜城址公園に四重六階の層塔型複合式模擬天守(墨俣一夜城歴史資料館)が建てられました。
私は、1999年6月11日に登城しています。
アクセス:JR大垣駅から名阪近鉄バス岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」下車、徒歩約12分
城その2・横山城(滋賀県長浜市石田町)
(写真はありませんでした)
横山城は、小谷城のある小谷山とは姉(あね)川を挟んで対峙しています。
横山城は小谷城の支城として、永禄4年(1561)に浅井長政によって築城されました。
難攻不落と言われた小谷城の前面にあるため、ここを攻略しなければ小谷城攻略はおぼつきません。
元亀元年(1570)姉川の合戦で織田信長軍が勝利し横山城を手に入れ、木下藤吉郎を城代として入れます。
横山城は天正元年(1573)9月浅井氏が滅亡するまで、北近江攻略の基地として織田軍の重要な拠点でした。
秀吉は約3年間この城を本拠とし、のちの賤ケ岳合戦で秀吉軍が使用した後に廃城となりました。
現在城址は石田山公園として整備され、登城路はハイキングコースとなっています。
山頂からは小谷城や長浜城、そして姉川の合戦跡を眺望できるようです。
堀切や土塁などの遺構もきれいに残っているそうですよ。
また、山麓の石田町は石田三成の出生地としてしられています。(未登城)
アクセス:JR長浜駅から湖国バス近江長岡線に乗り「坂下」で下車、日吉神社まで徒歩5分。日吉神社脇から登城します。
城その3・長浜城(滋賀県長浜市)
天正元年(1573)に織田信長は浅井氏を滅亡させ、この戦いで木下藤吉郎と名乗っていた秀吉は軍功をあげ、浅井氏旧領の大半を与えられます。
秀吉は初めて城持ちの大名となり、今浜に自分の初めての城を築城します。
天正3年に城は完成。
地名を主君信長の名の一字をとって長浜に改めます。
残念ながら絵図などが残っていないため、どのような城だったのか全体像はわかっていません。
賤ケ岳合戦(1583)の後に山内一豊、関ヶ原の合戦(1600)の後には内藤信成(のぶなり)が入城しましたが、元和元年(1615)の一国一条令で廃城となります。
豊(ほう)公園にある現在の天守は、長浜市の市民の寄付と熱意によって、昭和58年(1983)に再興されたもの。
三重五階の望楼型複合式模擬天守で、中は長浜市立長浜城歴史博物館となっています。
長浜城は「秀吉出世城」とも言われていますね。
私は1997年8月5日に登城しました。
アクセス:JR北陸本線「長浜」駅から徒歩5分
城その4・姫路城(「日本100名城」第59番)
織田信長の命令で西国の雄・毛利輝元ら毛利家の勢力下にある中国攻略に出陣した羽柴秀吉に、黒田孝高(よしたか 官兵衛)は前線拠点として自分の城だった姫路城を提供します。
▼関連記事
この時代の姫路城は中世の城だったので、秀吉は黒田官兵衛と浅野長政(ながまさ)に新たに築城させます。
これが、同9年に秀吉が姫山と鷺山を利用して築いた姫路城です。
石垣が築かれ、本丸と二の丸が設けられ、本丸に三重の天守を築いて近世城郭として整備し、名前も姫路城と改めます。
慶長14年(1609)に現存の連立式大天守が完成し、今日に残る大城郭の姫路城となります。
私は1995年11月5日に登城しました。
アクセス:JR山陽本線姫路駅から徒歩約20分
城その5・山崎城(天王山城・宝寺城)(京都府乙訓郡大山崎町)
(写真はありませんでした)
応仁の乱前から築かれていた山城(標高270m)で、京都を防備するため細川晴元らが城主を務めていました。
明智光秀と戦った「山崎の戦い」で、秀吉軍が山崎城に陣取って戦いに勝利。
秀吉はその後の清州会議で長浜城を柴田勝家に譲ることになったため、大坂城を築城するまでの間、姫路城よりも京都に近いこの城を本拠地とします。
山麓にある宝積寺を含めて城郭として利用したと考えられています。
秀吉は天正11年(1583)から築城を始め、天守も造ったようですが、はっきりしたことはわかっていません。
廃城は天正12年のようです。
山崎は交通の要所でしたので、軍事、経済の両面において重要な城でした。(未登城)
城その6・大坂城(「日本100名城」第54番)
秀吉在城の期間:天正11年(1583)~天正15年(1587)
天正11年(1583)石山本願寺の跡地に黒田孝高(よしたか 官兵衛)を総奉行として築城を開始。
その規模は安土城をはるかに凌ぎ、信長とその子息のみが使用できた金箔瓦を使用することにより、自らが真の信長の後継者であることを表明、誇示するものでした。
天正13年ごろには五重八階建て黒漆塗の下見板張りと金箔瓦、金の飾り金具を付けた絢爛豪華な望楼型天守が完成します。
天守の形式は安土城天主を継承したもののようですが、外観は安土城よりいっそう派手✨です。
秀吉は本丸のみ自らで造営しますが、二の丸以下の曲輪は天下普請(大名に経費を負担させて天下のための城を築かせるやり方)で造らせています。
しかし、元和元年(1615)の大坂夏の陣で炎上。
その後秀吉の城を上回る規模で、白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が寛永3年(1626)に完成しました。
しかしそれも寛文5年(1665)に焼失しています。
現在の天守は、豊臣の大坂城を模して昭和6年(1931)に建てられた復興天守です。
市民の寄付により、徳川大坂城天守台の上に建てられていますよ。
私は2003年5月15日に登城しました。
アクセス:JR大阪環状線「大坂城公園」駅から徒歩15分、大手門から登城に場合は大阪地下鉄「谷町4丁目」駅から徒歩約15分。
城その7・聚楽第 (じゅらくだい・じゅらくてい 京都市上京区一条堀川周辺)
(写真はありませんでした)
秀吉在城期間:天正15年(1587)~天正18年(1590)
天正15年(1587)、平安京大内裏跡に関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅・城郭として建てたものです。
「聚楽(じゅらく)」と名付けました。
九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみました。
天正16年(1588)に聚楽第に御陽成(ごようぜい)天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせます。
天正19年、秀吉が関白職を秀次に譲ったあとに聚楽第は秀次の邸宅となりました。
しかし竣工後わずか8年の文禄4年(1595)に取り壊されてしまい、不明な点が多い城です。
(未登城)
城その8・石垣山城 (石垣山一夜城「 続日本100名城」第126番) 小田原市早川)
天下統一を目指す秀吉にとって、小田原の北条氏は残された最後の強敵でした。
天正18年(1590)、全国から集めた豊臣方20万の大軍で北条氏の本拠小田原城を包囲します。
上杉謙信や武田信玄でさえ攻略できなかった小田原城は難攻不落の堅城です。
▼関連記事
持久戦を決意した秀吉は、小田原城下を見下ろす笠懸(かさがけ)山に新しい城を築き小田原城攻めの拠点とします。
築城は極秘のうちに昼夜を徹して行われ、着工わずか80日にして城が完成したといわれています。
石垣山築城した陣城は、陣城といっても本格的な総石垣造りの天守を持つ城郭で、関東に初めて出現した近世城郭です。
竣工後朝方までに城前面の樹木を切り払い、敵方には一夜にして誕生したと思わせました。
石垣山城と名付けられた新城は石垣山一夜城、あるいは太閤一夜城とも呼ばれています。
城の建設に全く気付かなかった北条方は、西の山の上に忽然と現れた白亜の天守が自分たちを見下ろしているのを知り驚いたことでしょう。
城兵たちの精神的な動揺は大きく、戦う意欲を削ぐには大きな効果があったと想像できますね。
この石垣山城本丸で、小田原城に向かって家康と連れ小便をしながら、秀吉が家康に関八州を与えると約束したという有名な話が残っています。
現在は歴史公園となっていまして、市民の憩いの場となっていますよ。
2005年7月16日に登城しました。
城その9・名護屋城(「日本100名城」第87番 佐賀県唐津市)
秀吉在城の期間:天正18年(1590)~文禄元年(1592)
秀吉は、天正19年(1591)に朝鮮出兵の前線基地として、朝鮮半島に近い東松浦半島北端に新しい城を築く命令を下します。
天下普請で昼夜兼行急ピッチで築城工事が行われ、文禄元年(1592)頃に金箔瓦を使用した当時最大級の五重の天守を築城。
本来戦いの前線に築かれる陣城(じんじろ)としては大規模な城郭は必要ないのですが、それにも関わらず大城郭を築城したのは、動員した大名に、自分の朝鮮出兵の本気度を示し、士気高揚をねらっての築城だと言えるでしょう。
本丸から三の丸まで多くの高石垣で造られた曲輪が配されていて、壮大な城郭に圧倒されます。
本丸からの360度の大パノラマの景色は素晴らしいの一言。
秀吉の城の周囲には戦いのために集まった諸大名たちの陣屋がおかれました。
秀吉が病没すると朝鮮出兵が幕を閉じ、名護屋城は廃城となります。
城址には各曲輪を累々と巡る石垣が残り、復元整備が進められています。
近くに「肥前名護屋城復元模型」や「肥前名護屋城図屏風」などが展示されている佐賀県立名護屋城博物館があり、名護屋城の往時の姿を紹介していますよ。
2002年11月9日に登城しました。
アクセス:JR筑肥線唐津駅から昭和バス唐津大手口発名護屋城博物館方面行きで約40分「名護屋城博物館入口」下車、徒歩約5分
城その10・伏見城(京都市伏見区桃山御陵)
秀吉在城の期間:文禄3年(1594)~慶長3年(1598)
天正19年(1591)、秀吉は関白職を秀次に譲り太閤となります。
名護屋城にいた秀吉は隠居城として伏見城築城を決意し、出兵留守大名らに助役を命令。
文禄3年(1594)にはほぼ完成します。
この築城は巨椋(おぐら)池に面した指月(しげつ)岡と呼ばれる丘上に、聚楽第の建物を多く移築して築かれた(指月伏見城)ようです。
ところが完成直後の慶長元年(1596)の大地震で、伏見城は崩壊してしまいます。あらま!
めげず負けず、今度は木幡(こばた)山に新城(木幡山伏見城)を築きます。
この慶長2年に完成した伏見城は、多くの曲輪がある輪郭式と連郭式を併用した大城郭だったようです。
しかし秀吉は慶長3年8月、6歳になったばかりの秀頼の行く末を案じながら、伏見城で病没。
63歳でした。
伏見城は秀吉最後の城となりましたね。
秀吉のあと家康が入城しますが、関ヶ原合戦の前哨戦で炎上します。
その後家康が慶長7年頃に天下普請により伏見城を再築しましたが、元和5年(1619)に廃城が決定。
つまり、伏見城は三度にわたって築城されたことになります。
現在城跡は明治天皇陵(伏見桃山陵)となっていまして、入ることはできません。
写真は、近鉄グループが1964年にオープンした伏見桃山城キャッスルランドという遊園地の中に築城した、複合式望楼型五重六階模擬天守です。
遊園地は2003年1月末に閉園となりましたが、模擬天守は地元の要望もあり残されることになりました。
残念ながら城内は立ち入り禁止となっています。
1998年4月29日に登城しました。
アクセス:近鉄丹波橋駅から徒歩約15分
*秀吉は戦のため以外にも築城をした
領国を治め、次へのステップのために築城していった信長と違い、秀吉は道楽でのお城作りもしています。
ただの道楽のような城、たとえば聚楽第や名護屋城、そして伏見城のような城も造っていました。
城を豪華にし、部屋の障壁画も当代一流の画家に描かせ、財力の凄さを見せつけて相手の敵対する意欲を失わせるという方法論は信長の真似です。
しかし、秀吉は小田原城攻城のための石垣山城では、茶室を作り茶会もしています。
名護屋城は陣城とはいうものの金箔瓦が輝く豪華絢爛な城を築き、茶室までしつらえ、諸大名に強大な権力を見せつけます。
天下人だから出来ることでしょうが、信長や家康とはだいぶ違っています。
信長や家康には道楽で築城したような城はありません。
軍事的に必要な場所に、必要な形での築城です。
日本の築城史において秀吉のような人物はいないと思います。
いずれにしても秀吉が近世城郭のスタイルを作ったといえるでしょう。
▼PR
*こちらもどうぞ
【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社発行 2007年7月3日第1刷発行)、同『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)「サライ」2012年9月号(小学館)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、『城』及び『同 解説編」(日本通信教育連盟)、『日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行) 、小和田哲男『NHKカルチャーラジオ 歴史再発見 城と女と武将たち』(2011年4月~6月 NHK出版)、『新選日本史図表』(第一学習社 1996年2月1日24版発行)他
▼PR チョコとワイン!!!