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長浜城は、羽柴(豊臣)秀吉が「一国一城」の城主として初めて築いた城です。
安土桃山時代の天正3年(1575)のことで、場所は琵琶湖北東岸の今浜。
念願かなっての築城なので、秀吉にとって大変思い出深い居城です。
別称は今浜(いまはま)城、平城です。
長浜城は日本100名城にも、続100名城にも選ばれてはいませんが、城の歴史のなかで忘れられない城です。
私は2021月7月30日に改めて登城し、紹介することにしました。
秀吉はこの長浜城を拠点に、信長の命により播州上月城、因幡の鳥取城、備中の高松城攻めなどに出陣し、まっしぐらに天下人へと出世街道を駆け上っていきます。
いわば秀吉にとっての出世城ですね。
このころから秀吉は、木下姓ではなく羽柴姓を名乗り始めたようです。
はっきりとした理由はわかりませんが、城持ち大名になったからでしょうか。
そしてわずか10年もしないうちに、豪華絢爛の大城郭大坂城の築城を開始するのです。
その後秀吉が天下をとったのは、天正17年(1589)のことでした。
織田信長に従って、朝倉・浅井征伐で軍功をあげた秀吉は、信長から浅井長政の旧領の伊香・東浅井・坂田の北近江三郡12万石があたえられました。
秀吉は浅井の居城だった小谷城に入りましたが、小谷城は山の中であり、領国を治めるには不適当でした。
そこで京都と北陸・東海を結ぶ要衝の地であり、湖北の水上交通の要衝であった今浜に、天正2年(1574)から築城を開始します。
今浜は、鉄砲を造っていた国友村の管理にも便利でした。
秀吉は築城とともに城下町造りも精力的に進めます。
小谷城下からは民家や寺院、近郊の平方・箕浦・川道からは商人を強制的に集めましたが、年貢や諸役を免除したうえで城下町の発展に尽力します。
このため秀吉は領民に愛される城主だったようです。
築城後、秀吉は信長の一字をもらって地名を長浜と改めました。
草履取りから身を立てた秀吉が、ついに城主、城持ち大名にまで出世したのですね。
上の図を見ると、長浜城は平城というよりは完全な水城です。
琵琶湖に沿って曲輪を並べ、内側に大きな湖のような内濠を造っています。
おそらく船で信長のいる安土や大津に急行できるように、また琵琶湖沿岸から物資を城内へ運ぶにも便利だと考えたうえでの縄張りだったのでしょう。
天正10年(1582)に本能寺で信長が亡くなり、いわゆる「清州(きよす)会議」で秀吉は山城・丹波を領することになり、長浜を去ります。
北近江は柴田勝家のものとなり、長浜城へは甥の柴田勝豊(かつとよ)が入城。
しかし同年冬に勝豊が勝家と仲が悪くなったことを知った秀吉は、その隙をついて長浜城を取り戻しました。
賤ケ岳の合戦のあと天正13年(1585)から5年間は山内一豊(かずとよ)が2万石で入城。
関ヶ原の合戦後の慶長11年(1606)には、徳川家康の異母弟の内藤信成(のぶなり)が4万石で入城し大修築をしたようです。
同17年その子信正が城主となりますが、元和元年(1615)に摂津高槻城へ移封されました。
その出来事により、湖北支配の役割は彦根城へうつり、長浜城は使命を終えます。
同年の一国一城令で廃城になり、主な建物や石垣は、彦根城主・井伊氏によって彦根城の用材として持ち去られ、長浜城は完全に失われました。
彦根城の山崎曲輪の三重櫓は長浜城の天守、また天秤櫓門は大手門だそうです。
また城門は市内の長浜御坊大通寺台所門や同知善院山門にも移築したと伝えられています。
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秀吉が築城した天守は資料などがなく明らかではありませんが、三重の天守と推定されています。
現在の天守は、昭和58年(1983)に故東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の設計指導により、鉄筋コンクリートで再興されたもの。
築かれた天守の外観は「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の寄付と熱望によって、天正期の天守の姿を想定して建てられました。
天守は二重の入母屋造りの大屋根の上に、唐破風を持つ二重の小さな望楼を載せた形です。
桃山時代の古風な三重五階望楼型で、多聞櫓が付いています。
一重目には比翼入母屋破風があり、最上階にはそれぞれの面に二つの華頭窓。
高欄も付けられていますね。
復興された天守は白漆喰総塗籠の「白い天守」となっていますが、おそらく当時は下見板張りの「黒い城」ではなかったでしょうか。
平成18年(2006)には館名が「長浜市長浜城歴史博物館と」改まっています。
野面積みの石垣で、角石も完全な算木積みとはなっていません。
古い石積みの形です。
わずかに残っている石垣が戦国の昔を偲ばせていますね。
湖の中にある太閤井戸跡石碑です。
秀吉の時代から琵琶湖の水位が随分と上がったのでしょう。
今は湖水に没しています。
長浜城址は現在豊公園となっており、多くの桜が植えられ「日本さくら名所100選」にも選ばれています。
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秀吉が長浜城主だった頃、鷹狩の途中ある寺を訪れてお茶を欲しいと言うと、少年だった石田三成がお茶を持ってきます。
このとき三杯のお茶を飲んだ秀吉は、三成の秀吉にたいする気配りに素晴らしいものを感じ、長浜城へ連れて帰り家臣に取り立てます。
「三献茶」とういう石田三成との出会いのエピソードです。
信長の草履を懐に入れて温めてから差し出した秀吉ならではのことでしょう。
2人の像はJR長浜駅前に建立されていますよ。
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長浜には黒壁スクエアや曳山博物館、長浜鉄道スクエアなど観光名所がたくさんありますが、秀吉ゆかりの六社寺を巡ってみるのも面白いと思います。
「六瓢箪めぐり」といい、豊国神社、知善院、神照寺、総持寺、舎那院、長浜八幡宮の秀吉ゆかりの社寺を廻ります。
無病息災を祈って、秀吉の馬印の瓢箪を集めてみるのも旅のよい記念となると思います。
(写真は一部を除き筆者撮影)
長浜城歴史博物館の公式サイトです。お出かけ前にチェックしてみてくださいね。
*長浜城詳細
・アクセス:長浜駅から徒歩で5分
・営業時間:9:00~16:30 館内は5時まで
・休業日:12月27日~1月2日
【参考文献】
平井 聖監修『5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、全国城郭管理者協議会編『城のしおり』(全国城郭管理者協議会発行)、『城 其ノ一』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古地図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、長浜城パンフレット他
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